2024年9月24日(火)

涼しい。このまま涼しければいいのだが。

  けさもまた体幹ゆれて迷歩するこのざまがいまのわたくしならむ

  封書一通、途中で贖ふ麦茶持ち大山は白き雲に隠るる

  やうやくに朝桃色に明けてくるひかりの中をふらりふらり

『論語』顔淵九 哀公、有若に問ひて曰く、「凶作で費用が足りないが、どうしたものだろう。有若対へて曰く、「いっそ徹(一割の税)になさっては。」「二割でも足りないのに、どうしてまた徹にするのか。」有若対へて曰く、「万民が十分だというのに、殿様は誰と一緒で足りないのでしょうか。万民が足りないというのに、殿様は誰と一緒で十分なのでしょうか。」

  万民の言ふこと聞かねば王に足らず聞く耳をもつことがたいせつ

『春秋の花』 佐藤春夫
・つつましき人妻とふたりゐて/屋根ごしの花火を見る――/見出でしひまに消えゆきし/いともとほき花火を語る。 『我が一九二二年』(1933)所収。『遠き花火』

私の十代後半時代に私が読んで感銘した。それから七十余年後ないし六十年後の今日、依然として掲出詩が私に浅からぬ感動を与えるのは、詩が古びなかったゆえか私が精神的に生長しなかったゆえか。否、それは、詩の魂と私のそれとの双方が少しも老け込まなかったことをこそ物語るにちがいない。
・淫蕩な女が/純潔な詩集を愛読した/純潔な詩集の著者が/淫蕩なその女を愛撫した (四行詩)

  佐藤春夫のこの手の詩には反応せず花火も淫蕩な女もわがものにあらず

2024年9月23日(月)

朝方雨が降っていた。気温は少し下がっているようだが、湿気がある。

  朝方は小雨なれどもほぼ全身濡れて歩くには難儀なりけり

  傘さして歩くは本意ならずしてただ雨濡らす木々をみてをり

  百日紅の赤き花まだ着けてゐる木下歩めり足弱なれど

『論語』顔淵八 棘子成曰く、「君子は質のみ。何ぞ文を以て為さん。」子貢曰く、「惜しいかな、夫の子の君子を説くや。失言はとりかえしがつかないものだ。文は猶質のごときなり、質は猶文ののごときなり。虎や豹の毛をぬいたなめし皮と同じようなもので(質だけにしたのでは君子の真価は表れないもの)だ。

  衛の国の大夫の言はんは質朴にあればは子貢には頼りなきもの

『春秋の花』 正岡子規
・夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも 『墨汁一滴』1901

「しひて筆を執りて」十首中の一・
・いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春ゆかんとす

なんとも凄絶である。

  今年ばかりと思ふときわれにもあるものをこの幾年か年暮るるころ

2024年9月22日(日)

朝から細かい雨が降っていて歩きに行けない。

  冬の眠りに安穏の日を過ごしたし天皇制の在ることを憎む

  一木一草森羅万象にひそみたる天皇(すめらみこと)を忌むはわれなり

  天皇制がつくる貧富・正邪を許せざる長き世経ればわれも老いたり

『論語』顔淵七 子貢、政を問ふ。孔子が言ふ、「食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。」子貢曰く、「必ずや已むを得ずして去らば、斯の三者に於いて何れをか先にせん。」孔子が言ふ、「兵を去らん。」子貢曰く、「必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何れをか先にせん。」孔子が言ふ、「食を去らん。古へより皆な死あり、民は信なくんば立たず。」

  政にたいせつな物は民の信、軍備にもあらず食糧にもあらず

『春秋の花』 横光利一
・蟻台上に餓ゑて月高し 『書方草子』1931所収「詩十篇」の一つ。私は、「月」を「寒月」ないし「冬の月」と感得する。横光死後、掲出詩を横光の文学的生涯を象徴するように思われて、ある同情的・哀傷的な感慨に捕らえられる。
・ひまらや杉萎えゆらぎつつしんと暑し鏡面をのぼる黒き蟻一つ 

坪野哲久『桜』1940も、私の好きな歌であるが、こちらは、紛いもなく真夏の情景を表現している。
・兵士なほ帰り来らず菊となる 横光利一

  懸命に蟻は幹の上をのぼりゆくその懸命は蔑しがたしも

2024年9月21日(土)

今日も36℃になるらしい。朝から風が湿っぽい。

山尾悠子『ラピスラズリ』を読む。幻想文学と言うべきと思いつつ、その細かい設定、描写に驚く。冬眠者をめぐる、春の目覚め、いやいや凄い。ラピスラズリは、青金色でしょうか。俺はやっぱり山尾悠子ファンなんだな。
・幾何学の町に麺麭買ふ髭をとこπの算術今日咲き継がせてよ 『角砂糖の日』

  ラピスラズリ凝りし色を掻きとりし聖なるものをわがものにせむ

  秋の枯れ葉音立てて散る城砦に冬眠準備扉閉めゆく

  春の日の目覚めをおもひ冬の眠りの準備に入る人形たちは

『論語』顔淵六 子張、明を問ふ。孔子が言ふ。「浸潤の悪口や、膚受のうったえが通用しないようなら、聡明といってよいだろう。浸潤の悪口や膚受のうったえが通用しないなら、見通しがきくといっていいだろう。」

  悪口やひどいうったえをほぼ聞かず明と遠とを全ふすべし

『春秋の花』 大隈言道
・これのみやけふはありつることならむ松のみ一つおちし夕ぐれ 『草径集』1863

植物の「実」の落下が物静かに詠ぜられた。
・落ちし葉のひと葉のつぎにまた落ちむ黄なる一葉の待たるるゆふべ 若山牧水

植物の「葉」の落下を物さびしく詠ず。
・皐月ゆふべ梢はなれし木の花の地に落つる間のあまきかなしみ 同

植物の「花」の落下を物がなしく詠じた。
     ↓
花の盛衰
・牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ 木下利玄『一路』
・花びらをひろげ疲れしおとろへに牡丹重たく咢をはなるる   同『銀』

  おのづから散りゆく秋の桜ばなくれなゐの色ものがなしけり

2024年9月20日(金)

36度まで上がるらしい。猛暑日だ。朝から暑い。

  さつきつつじの苗木に絡む蔦の先ひるがほの花はかなげに咲く

  枯れ木の影のごとくに存在感うすきは老いのわれならなくに

  もの言はぬ石の地蔵に並び立つわれに似る像よだれかけして

『論語』顔淵五 司馬牛、憂へて曰く、「人皆兄弟あり、我れ独り亡し。」子夏が曰く「商これを聞く、死生 命あり、富貴 天に在り。君子は敬して失なく、人と恭しくして礼あらば、四時の内は皆兄弟たり。君子何ぞ兄弟なきを患えんや。」

  兄弟のなくて哀しむことなかれ君子は四時みな兄弟なり

『春秋の花』 泉鏡花
・手にとれば月の雫や夏帽子 春陽堂版『鏡花全集』15(1927)

「月の雫」は「露」の異称だが、ここでは月光がパナマか麦麦藁かの上を流れ走る情景の描写である。静的ではなく動的な対象表現が、実に見事に生き生きとしている。
    ↓
・癆咳の頬美しや冬帽子 芥川龍之介
    ↓
・死病得て爪美しき火桶かな 飯田蛇笏
    *
・むらもみぢ灯して行く貉の湯 泉鏡花

  死病得て迷ひありけり死といふもさう遠からず人にあるべし

2024年9月19日(木)

今朝も暑いが、まだ猛暑ではない。

  黒雲の急に来たりて突然に風雨はげしく雷も閃く

  遠方に雷鳴響きたちまちに光の下る尖りものの横

  忽ちに雨量増したる川沿ひの道に沈みし軽トラック

『論語』顔淵四 司馬牛、君子を問ふ。孔子が言ふ。「君子は憂へず、懼れず。」「心配もせず、恐れもしないなら、それで君子と言って宜しいのでしょうか。」孔子は言ふ。「内に省みて疚しからずんば、夫れ何をか憂へ何をか懼れん。」

  内に省みて疚しくあらずは何を憂へまた何をか懼れむ

『春秋の花』 川端康成

「二十歳を過ぎた彼は、誰にも始終寂しい後姿を見せてゐるかのやうな印象を与へた。冷たい秋の稲妻のような美しさの思ひ出を残した。呼び止めたくて呼び止められないものであった。」『落葉』(1931)の一節。『落葉』の発表後三十年余後、吉本隆明が、マルクスの五感の形成は今日までの全世界の労作である。」とうい言葉を援用しながら川端晩期の『眠れる美女』を論じた。たしかに川端の文学総体には「呼び止めたくて止められない」「冷たい秋の稲妻のやうな美しさがある。
・みどりすべてみどりのままに去年今年

  文章に宿りしもののきびしさを川端康成に言ひ当てたりき

2024年9月18日(水)

朝から暑い、今日も暑い。

荒川洋治『文庫の読書』。荒川洋治は、短編小説を選択する名手だと思っていたら、文庫本を選ぶこともたいしたものであった。何冊も読みたい文庫本があるが、いつか読める日がくると嬉しい。

  荒川洋治の文庫紹介たのしくて読みたくなるがそれほどは読めず

  このところめっきり落ちたる読書量ひと月に七冊読めばまよし

  むつかしい書物のみにあらず小説の類も数へ月に5冊か

『論語』顔淵三 司馬牛(孔子の門人)、仁を問ふ。孔子が言ふ。「仁者は其の言や訒。」「そのことばがひかえめなら、それで仁といってよいのでしょうか。」孔子が言ふ。「これを為すこと難し。これを言ふに訒なること無きを得んや。」

  仁を為すことの難しさ実践もなすこと難し言ふに訒なれ

『春秋の花』 斎藤茂吉
・朝あけて船より鳴れる太笛のこだまはながし竝みよろふ山 『あらたま』1921
・あはれあはれここは肥前の長崎か唐寺の甍にふる寒き雨
    ↓
・劫初よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ 与謝野晶子『草の夢』
・この道や遠く寂しく照れれどもい行き至れる人かつてなし 島木赤彦『太虚集』

  芸術家のたどりし道の険しさのたとへやうなし傑作出でず