2024年5月28日(火)

朝、しょぼしょぼ降っていたが、やがて本降りに。小雨になったり大雨になったりして夜半まで降り続くらしい。

  朝に行く道はさつきの花落ちてその花を踏む老いの歩みは

  しとしとと降る雨の中さつき花によろこばるるか老い独りゆく

  傘ささずさつきの花の咲くところ目によろこびて老いの楽園

『論語』泰伯三 曾子が病気になった。門弟子を呼び言った。「予が足を啓け、予が手を啓け。詩経には『戦戦兢兢として、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し』とある。而今よりして、これから後、わたしももうその心配はないな、君たち。」

  曾子の病深淵に臨むか薄氷を履むかしかれどももう免れる

『正徹物語』148 人丸の御命日は秘する事なり。知っている人は少ない。三月十八日である。しかし人麻呂影供はこの日には催されない。六条の顕季の影供は夏六月であった。

  人麻呂の忌日を知るはまれにして影供も夏の六月にする

『伊勢物語』九十八段 太政大臣(藤原良房)に仕えている男がいた。九月ごろ、梅の造り枝に狩った雉をつけ献上した。
・わが頼む君がためにと折る花は時しもわかぬものにぞありける

男がこう詠んだので、大臣は深く感じ入り、使者に褒美を与えたのだった。

いささかこびているように感じられるが。

  へつらひのごときとおもふがさにあらずこの歌の持つ実直さあり

2024年5月27日(月)

朝から雲が空を覆っている。昼頃、雨になり、じきに止むらしいが、後も曇り。鬱陶しい。

  すずめ二羽つがひの鳥か新緑の木から木へ移る後先ありて

  すずめ鳴く、鳴きかはす声愛らしく木々の緑を移れるならむ

  たちまちに電線に飛ぶすずめごの跡追ふらしき一羽も飛べり

『論語』泰伯二 孔子の言。「恭にして礼なければ則ち労す。慎にして礼なければ則ちいじける。勇にして礼なければ則ち乱る。直にして礼なければ窮屈になる。君子、親に篤ければ則ち民仁に興る。故旧遺れざれば、則ち民が薄情でなくなる。」

  いづれにしても礼守るべし君子なれば親を思ひへば仁なるべしを

『正徹物語』147 「思ひきや」「我が恋は」という五文字は、この四、五十年詠んだことはない。思うに両方とも気障で嫌味な詞である。「我が恋」といはずとも、他の誰があなたの恋を論ずるか。「思ひきや」の代りに、「思はずよ」「知らざりき」などと詠む。

  思ひきやと詠むことはなし他の誰がおのが恋なぞを論ずるかなや

『伊勢物語』九十七段 堀河の大臣(藤原基経)の四十の賀を、九条の邸で催した。

中将であった翁(業平)が、詠んだ。
・桜花散り交ひ曇れ老いらくの来むといふなる道まがふがに

これは、これは、知ってもいるが、よい歌である。

  さくら花さかりをすぎて散りかかる老いへの道を迷はすごとく

2024年5月26日(日)

今日は曇りが続くらしいが、時折晴れた空が覘き暑い。

  一刷毛の雲の真下の影に入る少し涼しきさつき花咲く

  朝と夕、そして寝る前それぞれに薬剤のむも病状かはらず

  口に含む一錠一錠を喉に流す薬に寄りて溶け方ちがふ

『論語』泰伯一 今日から泰伯第八に入る。

孔子が言う。泰伯(周の文王の父季歴の兄。自分の方に位を伝えたいのだと見て取り、国を棄て、南方、呉へ亡命した)は至徳と謂うべきのみ。三度も天下を譲ったことになるが、人民はそれを讃えることさえできなかった。
人に知られることなく王位を譲ったのが泰伯である。

  泰伯の至徳を思ふ。知られずに王位を譲ること三度なり

『正徹物語』146 新羅明神の歌は、『続古今』に入っている。
・から船にのり尋ねにとこしかひありけるものをここのとまりに 続古今691

弘法大師、
・法性のむろ戸ときけど我すめば有為の浪かぜたたぬ日ぞなき 新勅撰574

という御詠歌は『新勅撰』に入っている。このように神明仏陀も歌をたしなまれた。歌は深い秘密を有するものなのであろう。

  新羅明神も弘法大師も和歌を成す歌とは神秘を底に秘めたり

『伊勢物語』九十六段 長年、女を口説き続けていた男がいた。女の心も木石ではなかったので、男を不憫に思った。女は、男に心を開いていった。ころは水無月泣かば。

女は、男に言ってよこした。「今はあなただけを思っています。ただ、できものが一つ、二つ出てしまった。暑い時期でもある。秋風が立ちはじめた頃、必ず逢いましょう。」時は経ち、「あの女は、男のもとへ行こうとしているらしい」とあちこちで噂がたった。噂がけちをつけた。女の兄が噂を聞き、男に女を渡すまいと、突然迎えにきた。女は、黄葉したかえでを女房に拾わせ、歌を書きつけた。
・秋かけていひしながらもあらなくに木の葉ふりしくえにこそありけれ

女は,書置きを、「あの人が使者をよこしたなら、渡してくれ」といって去った。その後、女がどうなったのかは、今日までわからない。幸せに暮らしたのかどうか誰も知らない。男は、まじないの柏手を打ち、呪っているということだ。「むくつけきこと。」人が誰かを呪うとき、果たして相手の身にふりかかってくるのかこないのか。それは誰にもわからないが、男は「今こそは見め」と言っているそうだ。

  男も女も未練がましくふるまへば男の呪ひもかなふべきなり

2024年5月25日(土)

曇り気味だけど、気温は上がっている。楠公祭である。

  この川の流れに逆らひ遡り花の木に会ふ葉ざくらの木

  まだマスクに顔を歪めるわれならむまなこのみ動く憎しみこめて

『論語』述而三七 孔子は穏やかでいて、厳しく、おごそかであって烈しくはなく、恭謙でいて、しかも安らかだ。

  孔子の教へおだやかでなほ厳しくておごそかになほ安らかならむ

『正徹物語』145 定家が言われた、「歌を案ずる時は、常に白氏文集の『故郷に母有り秋風の涙、旅館に人無し暮雨の魂』という詩を吟ぜよ。この詩を吟ずれば、心がたけたかくなり、よい歌が詠まれる。」「また、『蘭省の花の時錦帳の下、廬山の雨の夜草庵の内』とある。「旅館に人無し暮雨の魂」は、旅先の宿所にたった一人でいるところに、ほろほろと雨の降りだすのは、誠に心細きものである。「なき人こふる宿の秋風」(玉ゆらの露もなみだもとどまらずなき人こふる宿の秋風 拾遺愚草2774)は、この詩の心にかなっている。

  白居易の詩に学ぶべしつねに諳んじ読みはべるばし

『伊勢物語』九十五段 むかし、二条の后(高子)に仕えていた男がいた。同じく后に仕える女としばしば会う機会があり、その女にずっと求婚していた。「簾越しにしても、どうにか会いたいものだ。そうして、おぼつかなく思いつめたことを、晴れ晴れとさせたいものだ。」と男が言ったところ、女は簾越しに会ってくれた。あれこれ物語の後、男が詠んだ。
・彦星に恋はまさりぬ天の河へだつる関を今はやめてよ

この歌にほだされて、女は男と直接に逢った。
男の強い気持ちが通じたのですね。よかった、よかった。

  天の河を隔つるが今宵逢ひにけりわれは彦星、織女をおもふ

2024年5月24日(金)

良い天気だ。今日は暑くなるようだが。リハビリが十一時二十分からだから、どうも調子が狂う。

妻が、家庭菜園を作っている友人から色々貰ってきたが、空豆が旨い。勿論、新玉葱も。

  空豆はかく甘きもの。わが妻が友からいただく菜園の実り

  皮むかず食ぶるがわれの流儀なりこの甘きもの皮を剥かざる

  かくあまき空豆に逢ふ恋人のごとくに口中にもてあそびたり

『論語』述而三六 孔子が言う。「君子は(たひら)かに蕩蕩(とうとう)たり。小人は(とこしな)へに戚戚(せきせき)たり。」
君子は平安でのびのび。小人はいつまでもくよくよしている。なるほどそうだ。

  坦かで蕩々たるが君子なりいつまでも悔やむ小人にはあらず

『正徹物語』144 定家の歌では、恋の歌が心底に沁み入って、どうこう言えないほどに素晴らしいものが多い。定家に対しては、有家・雅経も、通具・通光もくらべものにならない。家隆だけは恋の歌を見ごとに定家に近いところまで詠んでいる。

  恋の歌では定家が一番からうじて家隆等しく他はかなはざる

『伊勢物語』九十四段 なぜだか、通っていた女のもとへ行かなくなってしまった男がいた。女には、ちがう男ができた。女と元の男は、子をもうけた仲であった。そのため男は、ときおり女に便りをした。女は、絵を描く人だった。絵を描いてほしいと、男は便りをした。ちょうど女のもとには、今の男が来ていた。一日、二日、女は男へも返事を出さなかった。男は、「無理もないけど、少しばかり、かなしいよ」と言って、皮肉をこめた歌を詠んでよこした。秋のころだった。
・秋の夜は春日わするるものなれや霞に霧や千重まさるらむ

女は返した。
・千々の秋ひとつの春にむかはめや紅葉も花もともにこそ散れ

  花も紅葉も散るものを散つてこの世に思ひとぐるや

2024年5月23日(木)

今日は朝から曇り。それほど厚くはないが、薄曇りだ。

  郷ひろみのバラード曲を聴きにつつ寂しきよせつなきよこの世の恋は

  われになほ人恋ふこころあることを郷ひろみのバラード聴きつつおもふ

  わたしよりたった一歳の年上が自由に手足うごかして歌ふ

『論語』述而三五 孔子が言う。「贅沢をしていると尊大になり、倹約していると頑固になるが、尊大であるより、むしろ頑固の方がよい。」

贅沢の方が害が大きいということだ。

  奢れば則ち不孫、倹なれば則ち固まあ倹約の方が害なかるべし

『正徹物語』143 俊成の家は、五条室町にあった。定家が母と死別した後に、父俊成の家に行ってみると、秋風が吹いて荒廃し、早くも俊成も心許ない様子に映ったので、定家の一条京極の家から、父のもとへ、
・玉ゆらの露もなみだもとどまらずなき人こふる宿の秋かぜ 新古今788

と詠んできたのは、哀れさも悲しさも際限なく、悶絶するばかりの巧緻な歌ぶりである。俊成の返歌に、
・秋になりかぜの涼しくかはるにも涙の露ぞしのにちりける

そっけなく返しているのが、理解できない。しかし、定家は自分の母のことなので、哀れにも悲しく悶絶するように詠んでいるのは当然である。俊成は、妻のことであり、もう老人なので、今更「やるせない、哀しい」などと言っては不釣合なので、「ただ季節が秋になって、風が涼しく」と何ともないように言っているのが、かえって何も思いつかないほど感動的だ。

  母の死と、妻の死との違ひありわれは俊成の歌を好めり

『伊勢物語』九十三段 低い身分だった男が、高貴な人に思いを寄せていた。ほんの少しは望みがあったのだろう。男は寝ては思い、思いにたえかねて詠んだ。
・あふなあふな思ひはすべしなぞへなくたかきいやしき苦しかりけり

身分不相応な恋の苦しみは、昔も今も同じだ。

  いやしきがわれよりまさる人を恋ふ苦しかりけりいまも変はらず

2024年5月22日(水)

朝から晴れ。なかなかいい日だ。リハビリ。

  郷ひろみのバラードを聴く「さよなら哀愁」せつなかりけり

  われにまだ恋する心ありしかも郷ひろみうたふ「さよなら哀愁」

  わたしより一歳上のはずである郷ひろみまだまだからだ動く

『論語』述而三四 孔子の病が重かった。子路はお祈りしたいと願った。孔子が「そういうことが有ったか。」というと、子路は答えて、「有ります。誄のことばに『なんじのことを天地の神々に祈る。』とみえます。」と言った。孔子は、「自分のお祈りは久しいことだ。」

  珍しく孔子病の重ければ天地の神に祈らむものを

『正徹物語』142 何であろうか「源氏物語では、作中の和歌は本歌に取らないで、物語の内容を取る」と書いてあったと思うが、実際は和歌も多く取っている。「思ふかたより風や吹くらん(恋ひわびて音にまがふ浦浪は 源氏物語須磨巻・光)」とあるのを、定家は、
・袖にふけさぞな旅ねの夢もみじ思ふかたよりかよふ浦風 新古今980

と、詠んでいる。「袖にふけ」とは、願っている。旅寝では寝られないので、せめて自分の恋しく思う方角から風が袖に吹け、というのだ。

  旅寝には夢にもみぢの散るばかりせめて恋ひしき人よ風吹け

『伊勢物語』九十二段 恋しい女の家のあたりに、たびたびやってくる男がいた。けれど逢うことはかなわない。手紙を渡すこともできない。その男が詠んだ。
・蘆辺こぐ棚なし小舟いくそたび行きかへるらむ知る人もみな

ちょっと可哀そうではあるが。

  いくたびも棚なし小舟を漕ぎだしてゆくへも知らぬ君ならなくに