曇り空である。今朝も夢を見た。しかし悪夢ではなかった。愉しい夢だ。内容は秘密にしておこう。金髪女性がいた。
さくらの実熟れ落ちたるがつぶれたり赤き惨劇の跡踏みて行く
夕飯の買い物に海老名駅まで歩く。およそ4500歩。帰りは一駅電車で戻る。
海老名駅のホームのベンチに悄然と腰をおろしてため息もらす

曇り空である。今朝も夢を見た。しかし悪夢ではなかった。愉しい夢だ。内容は秘密にしておこう。金髪女性がいた。
さくらの実熟れ落ちたるがつぶれたり赤き惨劇の跡踏みて行く
夕飯の買い物に海老名駅まで歩く。およそ4500歩。帰りは一駅電車で戻る。
海老名駅のホームのベンチに悄然と腰をおろしてため息もらす
永井荷風『つゆのあとさき』読了。まあ昔の話ではありますが、いつの時代も男も女もどうしょうもないものですなあ。作家である清岡進など許しがたいバカ者だが、人間とはこんなものなんでしょう。女給の君江の奔放さも小説の最後の方になると愛らしいものに思えてくるからおもしろいものです。荷風いいですね。
男も女もしやうもないものとおもひしが厭ふてもどこか愛らしくして
便壺にけさの雲古のうづくまる。色よし 形よし 臭ひ、まあよし
今日も橋を渡って隣町へ散歩したのだったが、その橋の欄干にイカルの群れが飛び上がってきた。目の前である。あんなに近くイカルを見たのははじめてだ。昨日のつばめといい、このイカルも、私は鳥に愛されている?鳥だと思われている?
橋の上に河川敷覗けばイカルの群れ飛び上がりくる黄の嘴と脚
九階のベランダに立つわが顔の間近をすぎてつばめ翻る
エアコン工事本番、作業員は、予想に反してたった一人だった。しかしその水際立った技能は見ていて圧倒された。古くなったエアコンを外し、あたらしいものに変えてゆく力技、室内機と室外機をつなぐドレインをカバーに入れる微妙な技巧、なかなかの見ものだった。結局2時間かかった。
エアコンの工事の日なり朝の風少しつよいが晴天である
ここにもすぐれた人間の技があるTシャツの胸厚き青年
朝刊を1Fのポストまで取りに行く日々の馴ひなれどマスクを忘る
黄砂のためか風景が霞んでいる。それでも海老名高校の裏あたりの田んぼの畔に立つとうっすらと霞んだまだ白い富士のいただきが遠望できる。
田の畔に立てば五月の空ひろく黄砂にかすむ白き富士が峯
五月八日の大谷水門に水あふれひかりもあふれ蛙鳴きだす
大けやきの下にあそぶ子繁り葉のみどりに映えて肌へ蒼白き子
七、八歳の肌の白い、目の大きな美少年であった。
そうだ忘れていた。今朝も夢を見た。いつもの駅周辺だ。だが今日は悪夢にはならなかった、代わるがわる同行者がいた。最後は若き日のいしだあゆみさんだった。無事に駅に行き着いたところで目が覚めた。なぜいしだあゆみだったのだろう。私が小学6年生だった頃に流行っていた「ブルーライト横浜」には忘れられない思い出があるが。
このマンションに住んで25年、この部屋のエアコンも25年使い続けたことになる。さすがにくたびれてきた。そしてエコではない。電気代も気になる。エアコンを買い替えることにした。その工事のための見積もりが今日だ。朝からエアコン周囲を片付ける。頂いた歌集などが山積みになっていて、それを移動するだけでへとへとになった。へろへろだ。体力の衰えを痛感する。
あるときは書物は凶器。その思想のみにはあらずその重さにも
中庭の柘榴のみどりに混じる赤――つぼみ四、五個が夕ぐれてゆく
連休が終わりました。橋を渡って隣町へ。5000数百歩の散歩です。
茅花の穂朝のひかりに揺れてゐる散歩に方途失ふところに
松浦寿輝『わたしが行ったさびしい町』読了。なかなかに愉しい読書でありました。吉田健一の「余生」についてをはじめ、示唆多く、「深く広く濃い闇のただなかに、ぽっと灯された小さな明かり――それが実はわたしたちの生の営みそのものなのではないか」とかさまざまに思量するに足る手掛かりがあり、西脇順三郎『旅人かえらず』を読みかえす契機にもなりました。あと、そう宮澤賢治の「月夜のでんしんばしら」も。「月夜のでんしんばしら」は、4月28日の陶製碍子を見上げる少年のところで思いだしたかった。
窓に/うす明りのつく/人の世の淋しさ 西脇順三郎『旅人かへらず』二
病室に身に染みてさびしき日々を経てすこしは人間らしくなりしか
昨日はわが家のIT担当の息子が帰ってきた。端午の節供には一日早いが菖蒲湯。「六日のあやめ」ならぬ「四日のあやめ」だが、早い分には文句はあるまい。息子は今日帰ってしまうのだから。
息子くれば「四日のあやめ」もいいだらう菖蒲湯に長く浸りゐるべし
昼頃から雨がふって、風が強い。
鯉のぼりも濡れて揉まれて雨ん中 子どもの日雲の上にはひかりあり