2024年12月16日(月)

今日も寒いけれど天気はいい。

  世の中の理不尽にかくいきどほる泣くなをみなよ男子(をのこ)よ泣くな

  みもよもあらずべちゃくちゃに文楽人形をみな顔、鬼面

  足、腕、手、表情を変へ鬼の顔におそろしおそろし文楽人形

『論語』憲問七 孔子曰く「君子にして不仁なる者あらんか。未だ小人にして仁なる者あらざるなり。」

君子の中でも仁でない人はいるだろう。しかし、小人なのに仁という人はいない。

  君子にして仁なきものもあるだらうしかし小人に仁あるあらず

『春秋の花』 小林秀雄
・彼の(ドストエフスキイ)の浅瀬を嫌ったリアリズムが深化するに従って批評家の理解は彼を去った。炯眼なミハイロフスキイさへラスコォリニコフが街頭を歩いてゐた事を頑固に認めようとはしなかった。『ドストエフスキイの時代感覚』(1937)
・「当時横行した実証主義的ヒュウマニズムが、彼の言葉を借りればロシヤの現実の浅瀬を渉るリアリズムに過ぎない事」などの文言が、掲出断章に先行する。真正芸術家の(特に当代における)悲惨と栄光との一典型が、そこに鋭角的に抉り出されている。
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そこで、自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれてゐるものは、皆他人へ文を成したものはない事に、はっきりと気就く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言へさうだ。 『批評』より

  ドストエフスキイ独特のリアリズム誰も理解せずこの時代感覚

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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