晴れるらしいが朝は寒い。今日は新嘗祭の日である。
権力に逆らひ生きて六十年余気概だけはあるこの耄碌にも
死んだ奴はバカだと言へずに過ごしこしこの三十年慎ましくして
寒くなれば広葉樹枯れ木の葉落つ公園をめぐる足弱老人
『論語』子路一五 定公問ふ「一言にして以て邦を興すべきこと諸れ有りや。」孔子
対へて曰く、「言は以て是くの若くなるべからざるも、其れ幾きなり。人の言に曰く、君たること難し、臣たること易からずと。如し君たることの難きを知らば、一言にして邦を興すに幾からずや。」定公曰く「一言にして以て邦を喪ぼすべきこと諸れ有りや。」孔子対へて曰く、「言は以て是の若くなるばからざるも、其れ幾きなり。人の言に曰く、予れは君たることを楽しむこと無し。唯だ其の言にして予れに違うふことなきを楽しむなりと。如し其れ善にしてこれに違ふこと莫くんば、亦た善からずや。如し不善にしてこれに違ふこと莫くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや。」
君主の心づかひ次第にて邦を生かすも滅ぼすも一言
『春秋の花』 正宗白鳥
「晩秋のこの頃、私は、『菊の香や奈良には古き仏達』と詠じた古詩人の心境を追想するとともに、若くして死んだ異国の詩人シェリイの『西風に寄せた』詩の激情にも心が動かされるのである。 『枯れっ葉を吹払ふやうに死んだ思想を追払へ。…冬来りなば春遠からじ…』。『文芸評論』(1927)所収「読書余禄」。
世評の大方は白鳥を「ニヒリスト」ないし「ニル・アドミラリ」ないし「無技巧」と目してきたようであるが、私は必ずしも(あるいはおおよそ)同じない。掲出文に内在する〝精神のみずみずしい積極性〟は私のごとき見方の有力な一例証であろう。
今日たとえば保坂和志(『この人の閾』)の「外見上ノンシャラン」の奥底にも、私は同様の〝精神のみずみずしい積極性〟を期待的に透視する。
ああいつか冬来りなば春遠からじとおもへるやうな心でいたし