2024年11月10日(日)

十度ちょとしかない。晴れているが寒い。

  もう疾うに尻から消えし蒙古斑なにかうしなふその青き痣

  蒙古斑がいざなふところに于きたしとおもふ日ありぬ(おいぼれ)なれば

  いまごろになぜ思ひだす蒙古斑その青痣を見し父も亡し

  蒙古斑のある幼子の尻たたくわが老い人の尻に移れと

  蒙古斑失へばその魔法のごとき力も失せて凡人になる

『論語』子路五 孔子曰く、「詩経三百編を誦し、これに授くるに政を以てして達せず、四方に使ひして専り対うること能わざれば、多しと雖ども亦た奚を以て為さん。」

  詩経三百編を暗誦するはあたりまへ政務も使者も能はざれば無ぞ

『春秋の花』 伊東静雄
・深い山林に退いて/多く旧い秋らに交ってゐる

今年の秋を/見分けるのに骨が折れる

『わがひとに与ふる哀歌』(1935)所収。第三詩集『春のいそぎ』(1943)の一篇「秋の海」には「昨日妻を葬りしひと/朝の秋の海眺めたり//われがためには 心たけき/道のまなびの友なりしが/家にして 長病みのその愛妻に//年頃のみとりやさしき君なりしとふ」という二節がある。かつて萩原朔太郎は、ほとんど無名のころの伊東を「日本に尚一人の詩人があることを知り、胸の躍るやうな強い悦びと希望をおぼえた。」と手紙で称賛・激励した。その伊東の、自然と人間にたいするたおやかな精神が、山と海との「秋」のこの二編に収斂せられているようである。

  深ぶかと山林をゆけばおのづから旧き秋らに交ざりゐるなり

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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