やはり暑いのだ。
色川武大『百』読む。父と限りなく作者に近い息子との葛藤。文体がいい。
父親の歌が「ぼくの猿 僕の猫」に載っている。
・いずこにも 心かよわす友なくて 夕鷺低く 首のべていく
「ぼくはと胸を突かれるが、本人にすれば鼻をかんで丸めてしまいたい性質のものにちがいない。」
そんなによくもないが、そう悪い筋の歌でもない。
わが丈より高きひまはりの黄の花のやや萎れたり夜明け前なり
相変はらず百日紅の朱の花を踏みつけて今日も川までの道
よろぼふは吾の守神このままでは滅びてしまふ吾を見尽くして
『論語』先進六 南容、白圭を三復す(南容は、白圭の詩をなんどもくり返していた)。孔子は、その兄のお嬢さんをめあわせられた。
ううんなんだらう孔子のこのお節介まあこんなことも時にはあるか
『百首でよむ「源氏物語」』第五十四帖 夢浮橋
・法の師とたづぬる道をしるべにて思はぬ山に踏みまどふかな 薫
これで『百首でよむ「源氏物語」』(木村朗子)は、その掲載する歌を詠み終えたことになる。『源氏物語』そのものは、もう一つ理解できていないが、そのステップにはなりそうだ。人生の最後には『源氏物語』をと思ったりするのである。
途絶へする夢の浮橋をわたりかね恋のみちにも逡巡ありき
『春秋の花』 谷崎松子
・降りしきる桜の花にうづもれて死なんとぞ思ふ乙女なり我は
谷崎潤一郎随筆集『初昔・きのふけふ』(1942)の『初昔』所収。松子は、潤一郎の妻。
潤一郎に「朝寝髪枕きてめでにしいくとせの手馴れの顔も痩せにけらしな」(『都わすれの記』(1948)と歌われつつ、敗戦後現代(1991年2月1日没)まで生き延びた。
・たのめつる人の手枕かひなくて明けぬる朝の静心なき
桜の花散りかひ曇る川土堤をゆきつ戻りつ死なんとぞ思ふ