2024年8月13日(火)

今日もまた暑いのだ。

貫井徳郎『悪の芽』を読む。つらい読書であり、何度もページを閉じた。384、389pの言葉が大切だろう。ここでは詳しくは書けないが、貫井ミステリイ、人間社会に潜む悪の芽を考えさせられる。悪の芽は、私にも確実にあるのだ。

  蔦の蔓這ひだす河原土堤をゆくのらりくらりと足弱われは

  石礫の埋もれし道を歩くなり百日紅の花散るを踏み

  朝のひかり浴びつつ河原土堤をゆく大山につらなる山やまを見る

『論語』郷黨一九 朋友死して帰する所なし。孔子が言う。「我に於いて殯せよ。朋友の贈りものは、車馬と雖ども、祭の肉に非ざれば、拝せず。」

  朋友帰して弔ひの場所なくばわが家の内に殯するべし

『百首でよむ「源氏物語」』第四十四帖 竹河
・折りてみばいとど匂ひもまさるやとすこし色めけ梅の初花 宰相の君(玉蔓派)
・よそにてはもぎ木なりとや定むらんしたに匂へる梅の初花 薫

・人はみな花に心を移すらむひとりぞまどふ春の夜の闇 蔵人少将

  人はみなあらたなる花に心移すわれのみひとり闇夜にまどふ

『春秋の花』 土岐善麿
・いまもなほ、青き顔して、革命を、ひとり説くらむ。ひさしく逢はず。(『黄昏に』1912「啄木追懐」)

・杜かげに新しき家のまた建つや往きかひしげき人の寂しさ

  革命を今の世に説く啄木のその覚悟やある頼もしきもの

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA