2024年8月7日(水)

またまた暑いが、気温は33℃くらいになるらしい。それでも暑いなあ。

  直角にとんぼうが曲がる尖石。磁場の狂ひは縄文の地

  杉の木の幹のみ残りされど立つ巨木生きてゐる千年のいのち

  諏訪文化と八ヶ岳文化の重なりて尖石、ふしぎの蛇が巻く

『論語』郷黨一三 厩焚けたり。孔子、朝廷から退出して言った。「人を傷へりや。しかし馬を問はず。」

  厩焼けるに人のことは問へど馬の是非には触れずに孔子

『正徹物語』213 家隆は四十歳以後ようやく歌人の名を得た。それ以前にもどんなにか歌を詠んでいたであろうが、評価されるのは四十歳以後であった。頓阿は六十歳以後歌道で名声を得た。このように昔の名人も、初心者のうちから名声があったことはない。稽古と愛好とを、長い年月にわたり続けて、遂に声望を得るのである。昨今の人が、歌の数ならば百首か二百首詠んだだけで、そのまま定家・家隆の和歌に擬そうと思うのは、おかしな事である。定家も「歩みを運ばないで遠い所に到達することはない」と書いている。関東や九州の方へは、何日も費やしてようやく到達するものなのに、思い立っては一歩だけで着こうとするようなものだ。

ひたすら愛好の心を強く持ち、昼夜の修行をゆるがせにせず、まずはゆったりとした心持ちで軽快に詠む癖をつければ、求めてもいないのにおのずと感興あふれる境地へ行き着くはずだ。但し後京極摂政良経公は、三十七歳で薨去されたが、生来の名人であり、すばらしい和歌を詠んだ。もし八十歳、九十歳の高齢まで長生きされたら、

さらにどんな珠玉を詠まれたかと世に言われたものだ。宮内卿は二十歳にも満たず亡くなったので、いったいいつ稽古も修行も積んだのかと思われるけれど、名声があったのは、これも生来の名人であったからだろう。このような生まれつきの名人においては、仏教でいえば、「発心の時点で既に大悟を開いている」ということなので、修行を積むまでのこともない。」しかし、そうでない連中は、ただ絶えず修行を励んで年月を送る者に必ずおのずと大悟を得る時が来るはずだ。そこでは愛好心にまさる手段も要諦もない。はるか昔でも、愛好心の強い人たちは、古今集など歌道の秘事の伝授、あるいは勅撰集への入集なども許された。真の愛数好心さえあれば、どうして大悟する時が到らないことがあろうか。

  数寄ふかく昼、夜わかぬ稽古ありさすれば大悟の道ひらけたり

『百首でよむ「源氏物語」』第三十九帖 夕霧

女二の宮は、亡き柏木の正妻である。今は落葉の宮と呼ばれている。
・山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でん空もなき心地して 夕霧
・山がつのまがきをこめて立つ霧も心そらなる人はとどめず 落葉の宮

・われのみやうき世を知れるためしにて濡れ添ふ袖の名をくたすべき 落葉の宮
・たましひをつれなき袖にとどめおきてわが心からまどはるるかな 夕霧

落葉の宮と夕霧の間をあやしむ一条御息所
・女郎花しをるる野辺をいづことて一夜ばかりの宿を借りけむ 一条御息所

後息所は絶望のうちに死去。真面目だった夕霧が恋に惑乱し、いままさに男盛りである。

  源氏をも驚かすほどの息子の恋男盛りといふべきころか

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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