2024年7月24日(水)

暑い。もう34度ある。

  大、小の蚯蚓のかばねさらされし舗道を歩むにつまづきやすし

  いまだなほ生乾きなる蚯蚓あり裂けやうとして踏みつぶしをり

  完全には乾かず縮むミミズ殿(どん)いつまでもそのままに残る

『論語』郷黨二 朝にして下大夫と言へば、侃侃如(かんかんじょ)たり(なごやか)。上大夫と言へば、誾誾如(ぎんぎんじょ)(慎み深く)たり。君在せば踧踖如(しゅくせきじょ)たり(うやうやしく)、与与如(よよじょ)たり(のびやか)。

孔子のことだろう。こういう人物が良いと言っている。

  下大夫には侃々如、上大夫には誾誾如、君には踧踖如、そして与与如に

『正徹物語』202 初心の頃は、人接して歌を詠むのが最良の稽古である。上達後は独吟してもさしつかえない。はじめから独吟していると、おぼつかないことも多く、そのような歌が感興を誘うようなこともない。

  初心にはまじはり多くして歌を詠む上達すれば独吟もよし

『百首でよむ「源氏物語」』第二十八帖 野分

光源氏が夕霧とともに台風見舞いもかねて、玉蔓のもとを訪れる。
・吹き乱る風のけしきに女郎花しをれしぬべき心地こそすれ 玉蔓
・下露になびかましかば女郎花荒き風にはしをれざらまし 光源氏

その後、花散里へ、夕霧に送るようにいった。
・風さわぎむら雲まがふ夕べにも忘るる間なく忘られぬ君 夕霧

夕霧の歌はそれほどでもない。

  吹き乱れはげしき野分の去りしのちしをれしぬべき心地こそすれ

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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