今日も暑い、暑い。
鏡の内の悪鬼悪相がいまのわれいづれのもののけかこのわれの貌
窓遠く初蟬の鳴く声きこゆどこかのみどりの樹に拠りて鳴く
根もとには蟬穴あらずあけぼの杉まだこのあたりから出でて来ざりき
『論語』郷黨第十 一 孔子、郷黨に於いて恂恂如たり。言ふこと能はざる者に似たり。其の宗廟・朝廷に在ますや、便便として言ひ、唯だ謹しめり。」
孔子は郷里では出しゃばらなかったということだろうか。こういう孔子は好きだな。
郷黨には惇々としてでしゃばらず宗廟・朝廷には便々として
『正徹物語』201 歌の数寄についてあまたある。茶の数寄にも様々ある。まず茶数寄とはこういう者だ。茶道具を整え、建盞・天目・茶釜・水挿など様々な茶道具を、満足いくまで取り揃え持っている人が茶数寄である。これを歌道で言うと、硯・文台・短冊・懐紙など見事に取りそろえ、いつでも当座の続歌などを詠み、そして会所なども設けている人が茶数寄の類であろう。
また茶飲みという者は、とりたてて茶道具の善悪を言い立てず、どこででも十服茶などをよく飲み分けて、宇治茶ならば、「三番茶である。時期は三月一お日前後に摘んだ茶である」と言って飲み、栂尾茶では、「これは戸畑の茶」とも、あるいは「これは逆の薗の茶」とも言い当てる。これはどこの産地の茶と、故右衛門督入道山名時熈などがそうであったが、口に含めばすぐに言い当てる茶飲みという。これを歌道で言うと、歌の善し悪しを弁別し、歌語の選択にも心をかけ、心の持ち様が正しいか歪んでいるかも明察し、他人の歌の品の上下さえよく見究めなどするは、なるほど和
神髄に通じよく分かっていると考えられる。これを前に出した茶飲みの類にするのがよい。
さて茶喰らいと言うのは、大きな茶椀で簸屑茶でも上質な茶でも、茶と言えばとりあえず飲んで、少しも茶の善し悪しをも分からず、がぶがぶ飲んでいるのが茶喰らいである。これを歌道で言うと、表現を選択することもなく、心の持ち様も問題とせず、下手でも上手とも交際して、いくらともなく和歌を詠んでいるのが、茶喰らいの類だ。
この三種の数寄が、どれであれ、同じ仲間であるから、会では席を同じくする。智蘊は「わたしは茶喰らいの衆である」と申した。
こんなどうでもいいことを長々と書かねばならない時代だったんだなあとつくづくつまらないものだと思う。
茶数寄でも茶飲みでも茶喰らいでもどうでもいいと言ひしか智蘊
『百首でよむ「源氏物語」』第二十七帖 篝火
・篝火に立ち添ふ恋の煙こそ世には絶えせぬほのほなりけれ 光源氏
・行くへなき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば 玉蔓
そしてここに、夕霧、柏木、弟の弁少将と連れ立ってやってくる場面がある。
篝火のゆくへ消すべしあまりにも熱き恋する人ありぬべし