2024年6月21日(金)

朝から雨。けっこう激しい。
柚月裕子『チョウセンアサガオの昨く夏』読了。柚月には珍しい十一の短編集だがそれぞれに怖いのだが、運命、そして涙がある。読みがいのある一冊だった。

  北からの風に押されて歩きゆくがたぼこ道を背中押されて

  北風になぶらてゐる老いのすがた前傾ふかくうつむきかげんに

  風吹けばゆくり歩むがここちよし新緑の木々のゆたかな葉々に

『論語』子罕三 孔子が言った。「麻の冕(冠)が礼である。この頃絹糸にしているのは倹約だ。そこで私は皆に従おう。主君に招かれたとき堂の下に降りて拝するのが礼である。この頃上で拝するは傲慢だ。皆とは違うけれど、私は下に従う。

  拝礼のときの冠みな絹なりその倹約にわれは従ふ

  拝礼のときは下より拝謁する上で礼することは傲慢

『正徹物語』169 「夢に寄せる恋」という題で、このように詠んだ。
・涙さへ人の袂に入ると見し玉とどまらぬ夢ぞうきたる

若紫の巻であろうか、紫の上が、まだ幼くていますのを光源氏が妻に迎えた時に「玉藻なびかん程ぞうきたる」と乳母が詠んだのは、まだ幼稚な年ごろの人を迎えても、生涯一緒に居られるであろうか、あるいは嫌われる性分なのかもわからない、それなのに妻に迎えてかしずいておくのは、なるほど頼りないことである。このような不安を「玉藻なびかん程ぞうきたる」と詠んだ。さて、私が「夢ぞうきたる」と詠んだのも、自分の魂があの人の袖の中へ飛んで入ったと夢に見るが、そのままとどまってはいられないので、我にかえるのだ。それで「玉とどまらぬ」と言っている。自分の魂が人の袂に入ると見ても、夢から覚めればもう帰っている。夢を詠むのに「見る」「覚むる」と言うと、手垢がついてよくない。「入ると見し」と言ったとことで、夢を見たという内容は感じられるので、「覚むる」と言わなくても、「玉とどまる」と言えば、もう夢から覚めたということは分かる。袖に入ると見たのにとどまらないので、 夢は頼りなく浮遊しているのである。

  たましひの袖に入るとぞ見てしよりわが夢ぞ浮くかなしかりけり

『伊勢物語』119段 浮気な男が、形見といって残った品々を見て、女は詠んだ。
・形見こそ今はあたなれこれなくは忘るる時もあらましものを

  形見にと残せしものを見ればこそ君を思へり無ければよきに

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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