朝から雨。けっこう激しい。
柚月裕子『チョウセンアサガオの昨く夏』読了。柚月には珍しい十一の短編集だがそれぞれに怖いのだが、運命、そして涙がある。読みがいのある一冊だった。
北からの風に押されて歩きゆくがたぼこ道を背中押されて
北風になぶらてゐる老いのすがた前傾ふかくうつむきかげんに
風吹けばゆくり歩むがここちよし新緑の木々のゆたかな葉々に
『論語』子罕三 孔子が言った。「麻の冕(冠)が礼である。この頃絹糸にしているのは倹約だ。そこで私は皆に従おう。主君に招かれたとき堂の下に降りて拝するのが礼である。この頃上で拝するは傲慢だ。皆とは違うけれど、私は下に従う。
拝礼のときの冠みな絹なりその倹約にわれは従ふ
拝礼のときは下より拝謁する上で礼することは傲慢
『正徹物語』169 「夢に寄せる恋」という題で、このように詠んだ。
・涙さへ人の袂に入ると見し玉とどまらぬ夢ぞうきたる
若紫の巻であろうか、紫の上が、まだ幼くていますのを光源氏が妻に迎えた時に「玉藻なびかん程ぞうきたる」と乳母が詠んだのは、まだ幼稚な年ごろの人を迎えても、生涯一緒に居られるであろうか、あるいは嫌われる性分なのかもわからない、それなのに妻に迎えてかしずいておくのは、なるほど頼りないことである。このような不安を「玉藻なびかん程ぞうきたる」と詠んだ。さて、私が「夢ぞうきたる」と詠んだのも、自分の魂があの人の袖の中へ飛んで入ったと夢に見るが、そのままとどまってはいられないので、我にかえるのだ。それで「玉とどまらぬ」と言っている。自分の魂が人の袂に入ると見ても、夢から覚めればもう帰っている。夢を詠むのに「見る」「覚むる」と言うと、手垢がついてよくない。「入ると見し」と言ったとことで、夢を見たという内容は感じられるので、「覚むる」と言わなくても、「玉とどまる」と言えば、もう夢から覚めたということは分かる。袖に入ると見たのにとどまらないので、 夢は頼りなく浮遊しているのである。
たましひの袖に入るとぞ見てしよりわが夢ぞ浮くかなしかりけり
『伊勢物語』119段 浮気な男が、形見といって残った品々を見て、女は詠んだ。
・形見こそ今はあたなれこれなくは忘るる時もあらましものを
形見にと残せしものを見ればこそ君を思へり無ければよきに