2024年5月5日(金)

端午の節供だ。リハビリで画いた塗絵(兜と鯉のぼり図)を息子たちの子どもへ贈るものの、おそらく着くのは明日以降。六日のあやめどころか七日のあやめになりそうだが。

  花ひらく皐月つつじの花の垣沿ひつつ歩むに老いはよろける

  空高くめぐりて降りる鳩の群れぽぽぽぽぽぽと鳴きつつ歩く

  蹴飛ばすやうに鳩の群らがる所ゆく平気で声あぐ憎らしいほど

『論語』述而一八 葉公(楚の葉県の長官)が孔子のことを子路に問うた。子路こたへず。「お前はどうして言わなかったのか。「其の人と為りや、憤りを発して食を忘れ、楽しみて憂ひを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ」

子路から見ても、まあ、人物として楚公はダメだということですね。

  楚の国の葉県の長が子路に問ふ。子路は無言なり人物わるし

『正徹物語』126 「まし水」は、ただの清水である。本当の清水の意である。」

「増水」と誤解があるからだろう。作例として、
・涼しさはまし水あさみさざれ石もながるる月の有明の声 草根集3239

  ましみづは真清水の意なり決して増水にあらず間違ふ勿れ

『伊勢物語』七十六段 二条の后が、まだ東宮の御息所と呼ばれていた頃。氏神に参詣の折、御息所は、お供に禄物を与えた。近衛府につかえていた翁にも、車から、じかに禄物を与えた。

男は、歌を詠んで献上した。
・大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひ出づらめ

男もまた昔日に思いをはせたのだろうか。彼の心を、誰が知ろうか。

  なかなかに逢うことできず翁になる業平のこと誰か知るらむ

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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