2024年4月26日(金)

よく晴れている。リハビリ。周囲をめぐったが、暑い。

  赤いつつじ白いつつじが庭に咲く異界へむかふ(こみち)ありけり

  赤、白のつつじの花の大きくて蜜の香りの溢る園すぎむとす

  赤いつつじ白いつつじの咲きにけりこの道老いのよぼよぼがゆく

『論語』述而九 孔子は、「喪ある者の側らに食すれば」、十分にはめしあがらなかった。また「是の日に於いて哭すれば、則ち歌はず。」

  喪のときには孔子慎み食少し哭あれば則ち歌うたはず

『正徹物語』118 或所の七夕の会に、頓阿と子息の経賢法印が出席した。経賢が「七夕の鳥」という題を取り、一首詠んで、頓阿に見せた。「思ひもよらぬ事」とて、投げ返した。経賢がまた詠みなおして見せたが、またなげ返した。また詠みてみせたるに「これも叶ふべからず」と返した。そこで経賢は「何とか仕り候べき」と、頓阿は「七夕には決まって詠む鳥があるでしょうが」といった。さて経賢が詠んでみせたところ、「これはさしつかえない」といった。披講の際に、なにを詠んだか見てみたら、鵲でした。昔は七夕でも別の鳥を詠んだものですが、二条家では、伝統から外れ異風となること嫌った。「七夕の鳥」ならば何度でも鵲を詠まなくてはならない。たしかにいつも星と鵲であるが、しかし趣向を目新しく立てようと心がけるのがよい。こうすることが好ましいスタイルにもなる。「七夕の鳥」で五首も六首も詠もうとするときは、雁でも他の鳥でも詠むのがよい。

  頓阿翁のこだはりいかが風情珍しくするがよきなり

かたくなな二条家に対して、正徹には少し違った思いがあるということであろうか。

『伊勢物語』六十八段 男が和泉へ行った。住吉の郡、住吉の里、住吉の浜を、通ってゆく。心晴れ晴れとする景色である。馬からおり、腰をおろして眺める。「住吉の浜」を、歌に詠みこんでみよ」という人がいるので
・雁鳴きて菊の花さく秋はあれど春のうみべにすみよしの浜
と男は詠んだ。見事な詠みぶりに、ほかに詠みこみ歌を作ろうという者はなかった。

この歌、そんなに見事ですかね。う~ん、そうかなぁ。

  住吉を歌はば海のすばらしさを技巧ではなく素直がよきなり

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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