2024年4月22日(月)

朝からしとしと雨、雲が近い。

  木の影を若草色の妻がゆく髪の毛染めて明るき妻が

  若草色の春のシャツ着て妻がゆくあけぼの杉のみどりの影を

  もうものの役に立たない老いの性もて余しつつ目覚めたるかも

『論語』述而六 孔子が言った。「道に志し、徳に拠り、仁に拠り、藝に游ぶ。」

これが、孔子の生き方であろう。端的でわかりやすい。藝に游ぶとはゆとりがある。

  徳、仁を大切にする孔子なりゆとりを持ちて藝にも游ぶ

『正徹物語』115 「松原」ということは、宵の時分では詠もうとは思わぬ詞である。

「待つ」を掛けるので、夜が更けた時刻がふさわしい。

  恋歌の心得として「松原」は夜が更けた時分に詠むがよからふ

『伊勢物語』六十五段 帝が思いをかけ、召し使っている女がいた。禁色さえ許されていた。大御息所と呼ばれた人の、従姉妹であった。御殿には、在原氏の少年がつかえていた。少年と女は親しくなった。女房には男が出入りすることは許されなかったが、少年ゆえに許された。少年は、しばしば女の目の前に座りこみ、うっとり眺め入るのだった。女は、「やめてください。みっともない。こんなことを続けていたら、今に身の破滅をむかえてしまいまことよ」と咎めた。すると少年はこんなふうに詠んだ。
・思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ

女が、帝のもとから自室へ戻るたびに、少年はやってきて座りこむ。周囲が見とがめても、おかまいなしであった。女は困りはて、里さがりした。少年は、好都合と、女を訪ね通う。人々は噂をして笑った。朝帰りをごまかすため、御殿の奥に沓を脱いで宿直していたように見せかける。けれど、灯火や清掃をつかさどる役人たちは、そのごまかしを見抜いていた。

少年は、青年へ、男へと育ったが、女のもとへ通うことをやめられなかった。こんなけじめのないことでは、だめだ。そして神仏に祈った。けれど思いは募るばかり。陰陽師と巫女を呼んだ。恋を止めるお祓いの呪具を持ち、穢れを流す河原へむかった。お祓いの最中に、いよいよ悲しみがつのる。恋心もますます募る。
・恋せじと御手洗川にせし禊神はうけずもなりにけるかな

と、詠み、河原から逃げだした。

女を召した帝は、うつくしく、信心も深く、尊い声で仏の名を唱える。女は、帝の声を聴くと、さめざめ泣けてくる。「すばらしい帝の仕えず、男の情につなぎとめられている運命の、なんと薄命なこと」帝は女のことを聞き、男を流罪にした。女は、大御息所により、実家の蔵に閉じこめられた。女は蔵の中で泣いた。
・海人の刈る藻にすむ虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ

そう詠んで、泣き続けた。夜毎、男は流刑の地から、女のもとへやってくる。それはうつし身の男だったのだろうか。男は毎夜、笛を吹く。歌をうたう、美しい声で。女は蔵の内で聴いた。逢うことはかなわない。
・さりともと思ふらむこそ悲しけれあるにもあらぬ身を知らずして

女は、蔵の中で詠んだ。男のたましいはさまよい、女に逢えず、流刑地に戻る。男は歌う。
・いたづらに行きては来ぬるものゆゑに見まくほしさにいざなはれつつ

清和天皇の時である。」染殿の后(藤原明子(あきらけいこ))のこと。或いは五条の后(藤原順子(のぶこ))ともいわれる。

  人の国より夜ごと夜ごとに訪れし女恋しや行きてはうたふ

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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