雲が多いが青空も覗く。やがて夜には雨になるらしい。
今日も、不意に浮かんできた「汽車ポッポ」である。なんでこのメロディが頭に浮かんだのだろう。宮原薫という。
走れ 走れ鉄橋を越す窓の外スピードスピードたのしいな
汽笛をならして汽車が行く野原だ、林だ、ほら山だ
汽笛ならし煙をはいて汽車が行くあかるい希望が待ってゐるから
『論語』雍也二三 孔子が言う。「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿し。」
知者は動き水をたのしいむ仁者は静かに長生きをする
『正徹物語』102 幼少の頃、七月二星に供えをといって、一首詠んで、梶の葉に書き付けたのが、歌の初めである。二星への感謝に去年の秋までに、梶の葉に書き七首詠んだ。
また、ろくに研鑽を積まぬ前から、厚顔にも歌会に出ていった。家は三条東洞院にあった。その向かい、幕府奉行人の治部のもとで月次歌会に出た。冷泉為尹、実父為邦入道。了俊、その他近習で三十余人の会衆であった。親しい恩徳院の律僧が連れていってくれ、治部入道、八十をこした白髪の老人に出会い、毎月二十五日の月次会に出るようになった。「児が和歌を嗜むことを褒め」、みずから今月の題だといって「深夜の閑月」「□□□雁」「別れて書無き恋」四字の三首題であった。八月初めのことであった。
二十五日の歌会は客座二列、一方の上席に冷泉為尹と実父為邦入道、もう一方には前探題今川了俊、その下へ近習、そして治部の一門三十余人が威儀を正していた。遅れて入った私は横座に着席。了俊は、八十を過ぎた法体で、裳もない黒衣、平江帯の長い房の飾り帯に座っていた。さて「深夜の閑月」の題では、こう詠んだ。
・いたづらに更け行く空のかげなれやひとりながむる秋の夜の月
また雁の歌では「山の端に一つらみゆる初雁の声」であったが、上句を忘れ、恋の歌も記憶してない。それからは出席を重ね鍛錬した。十四、五歳であった。
その後、奈良の門跡へ仕えた時は、忙しくて歌などは詠めなかった。父と死別してからあちらこちらの会に出るようになって歌を詠んだ。治部のもとでの月次会よりこの方の詠草は三十六帖あった。二万百余首だが、今熊野の火災で焼いてしまった。その後は一万首に足らないくらいだ。
いやいや自讃なれども正徹さん歌への思ひただならぬもの
年若き十四、五のころから研鑽し数多く歌ふたしかに凄し
『伊勢物語』五十二段 むかし、男ありけり。人のもとよりかさなりちまき(飾りちまき)おこせたりける返りことに、
・あやめ刈り君は沼にぞまどひけるわれは野にいでて狩るぞわびしき
とて、雉をなむやりける。
あやめ刈りが狩になる不思議。
あやめ刈りあやめに巻きし粽をぞ「狩り」に掛け昔の人は雉を返せり