雨だ。曇りのはずでは。せっかく桜が咲いたところだったのに。
堀田善衞『定家明月記私抄』を読んでいると、私の祖先は公家、貴族などではありえないと思うようになるものだ。公家、貴族もたいへんな時代だが、わが祖は、怯えて殺される庶民か、きっと卑賎の者であったのではないか。手に職などないし、芸に携わることもできない。
五条河原に骨にまみれてわれありとおもふものから貧窮の者
平安時代のわれを想へば泣けてくる貴族にあらず武者にもあらず
河原者とさげすまれつつ芸を売るその仲間にもはじかれてわれ
『論語』雍也二〇 孔子が言った。「知っているというのは好むのに及ばない。好むというのは楽しむのに及ばない。」
知るよりも好む、好むより楽しむ境地を語る子の曰く
『正徹物語』99 「祈る恋」という題に、こんなふうに詠んだ。
・あらたまる契りやありと宮造神をうつして御禊せましを
これもまた昔から人が詠んだことのない内容だ。
神様の前にて手を打つ鈴鳴らす祈るはわれの恋にあらずや
『伊勢物語』四十九段 男が、妹に恋をした。異腹であろうが、すでに禁忌の時代である。
・うら若みねよげに見ゆる若草を人の結ばむことをしぞ思ふ
男がこう詠んだ。妹は返した。
・初草のなどめづらしき言の葉ぞうらなくものを思ひけるかな
どうやら妹の知恵が勝っているように感じられる。
兄、いもうとの恋の様ねよげに見ゆるは兄のあやまち