2024年3月25日(月)

朝から細かな雨が降っている。明るくならない雲。そしてしとしと雨。止むようで止まない。

昨夜、服部幸雄『宿神論』、著者歿後の出版だが、その参考文献目録に一冊だけ小説が掲載されている。皆川博子「木蓮寺」(「小説新潮」1991年5月号)。「『後戸』の空間を題材に扱った小説で、1998・12『朱紋様』(朝日新聞社)に収録された」と注記がある、その「木蓮寺」を読んだ。私の卒業論文は「宿神考」と題するレポートのようなものであったので、服部幸雄の論文は大きな参考になった。卒業論文は、ほとんどそれらの文献の焼き直しであった。その参考文献に載った小説である。華麗奇抜な11の短編が蒐められた中の一篇である。後ろ戸の神は宿神、摩多羅神という。寺院の内陣の後ろ側にその神は、ひっそり祀られている。中世芸能民の信仰する神だが、その空間の特色を、この小説はよく捉えている。詳しくは両書を読んでもらいたいが、最後に古庫裏婆がいう「生きとるのやら死んどるのやら、分からぬものが漂い棲む、ここは後戸や」「やさしい寂しいものが棲むところや。そう聞こえた」とある。後戸の神を明らかにした服部幸雄も嬉しかったに違いない。もちろん私にも。

その後、中世芸能民の信仰という問題から離れてしまったので、いっそう懐かしい思いがある。

  探しまはりやうやく行きつくゴールデン街ギターの音に軍歌を歌ふ

  しんみりとしづかに飲むはナベサンか終電すぎても酒飲むをやめず

  新宿ゴールデン街に遊べるはむかしむかしのことにしあらむ

『論語』雍也一〇 伯牛(孔子の門人、冉耕)が病気になった。孔子が見舞って、窓越しに手を取った。「これを亡ぼせり、命なるかな。斯の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること」。ハンセン氏病らしい。

  伯牛の疾に苦しむを見舞ひする孔子の(まなこ)に潤みなきかは

『正徹物語』89 和歌の声点の説には、家隆の説だと執着する人もいるが、私どもは、俊成・定家の御。子左家の説のほかは一切知らない。たとえば「やまとうた」と発音するとき、定家は「大和紙ではない」と述べた。「やまとかみ」は清音で上声。「やまとうた」は、平声で発音すべき。

  和歌には(しやう)があるといふ俊成・定家に伝はる(しやう)なり

『伊勢物語』四十段 若い男がいた。女に恋した。悪くない女であった。されど男の親は、女への思いが募ることを案じ、女をよそへ追いやろうとした。とはいえ、まだ手をくだしてはいない。男は親がかりの身で、気概がない。女の方も、身分が低いのであらがえない。男の思いはいやまさる。親はいそいで女を追いだしにかかった。男は涙にかきくれた。しかし、女を引き留めるすべはない。とうとう女は連れ去られた。男は泣きながら詠んだ。
・出でて往なば誰か別れのかたからむありしにまさる今日は悲しも

男は気を失った。親はあわてた。こんなにも息たえだえなさまになってしまうとは、思ってもみなかった。神仏に祈る。日暮れころ気を失い、次の日の夜、ようやく男は息をふきかえした。昔の若者は、このように一途だった。今どきの、わけ知りの大人は、こんな恋はできないだろう。

その後、女は帰ってきたのだろうか。気になるが、それは書かれていない。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA