2024年3月13日(水)

昨日までと打って変わって快晴である。しかし北風が寒い。リハビリは椎名さん。肩の凝りをほぐしてくれる。

昨日は雨だった。

  雨の中手すりを歩む鶺鴒の淑女のごとく下手にし去る

  ベランダの手すりの上を胸張りて淑女然たる鶺鴒歩む

  この世から別乾坤へわれもまたわれにはあらぬわれならなくに

石橋正孝『大西巨人 闘争する秘密』(左右社)を読む。現代思想めいた文体が、気に食わないものの、大西巨人は好きな作家だから、興味深い内容であった。大西巨人が短歌を愛する人であることは『神聖喜劇』を読めばよくわかることだし、詩歌のアンソロジー『春秋の歌』一冊があることでもわかる。この『闘争する秘密』でも、二首の短歌が問題になっている。その二首を上げておく。
・この道を泣きつつわれのゆきしことわが忘れなばたれか知るらむ 田中克己
・この道をこのとき行くはわれのみかわれのみかとて涙ながるる 作者不詳

「どちらの短歌も、多かれ少なかれセンティメンタリズムに堕している」と批判して、デ・ラ・メアの詩と比較するのだが、私はこれらの歌が好きだ。 

『論語』公冶長二六 顔淵(顔回のこと)と季路(子路のこと)がおそばにいたとき、孔子先生が言われた「蓋ぞ各々爾の志を言はざる」。子路は「願はくは車馬衣裘、朋友と共にし、これを敝るとも憾みけん。」顔回は「善に伐ること無く、労を施す無けん。」子路が孔子に聞いた。「願はくは子の志を聞かん」、そうすると「老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、小者はこれを懐けむ。」孔子が素直に答えている。

  孔子の志を問う老人には安心をさせ、友を信じ、若者を慕ふ

『正徹物語』77 かば桜は、一重桜である。『源氏物語』幻巻「枝アカウシテ花モ紅梅ニテ艶ナル桜ナリ」。

  樺桜を問はれて答ふ枝赤くして紅梅に似る一重のさくら

『伊勢物語』二十七段 男が女のもとへ一夜だけ行き、通わなくなった。手水場の盥のふたである貫簀を、女は払いのけてのぞきこんだ。そこには一人の女が映っていた。
・わればかりもの思ふ人はまたもあらじと思へば水の下にもありけり

通いやめてしまった男は、女のその歌を立ち聞きしていた。そしてこんな歌を詠んだ。
・水口にわれや見ゆらむ蛙さへ水の下にてもろ声に鳴く

女は、男の顔が映っているのを、自分の顔が映っていることにして歌を詠んだのである。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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