今日も朝から雨、そして寒い。
尾崎翠『第七官界彷徨』(河出文庫)を読む。おもしろいと言えば、おもしろい。奇妙と言えば奇妙、そして奇抜な小説だ。こんなものが昭和初期に発表されていたことを考えるとこの時代のモダニズムの再考が問われるし、ないよりこの小説の凄さを感じざるを得ない。小野一助、小野二助、佐田三五郎、そして小野小町が、同じ家に暮す話だが、苔の恋や精神医学語の氾濫などそれぞれに奇抜なのだ。果ては、さて第七官とはいったい何だろうと思うのだが、話の展開は奇妙奇天列、おもしろい。
小野一助、二助、三五郎そして小町の奇妙なる生活
尾崎翠が昭和の初期に描く小説奇妙なれども凄きぞこれは
いつのまにか皺しわになる手の甲をつくづくと観る老班なども
手の甲の老班の数増えてゐるかくも老いたるわれにやあらむ
『論語』公冶長八 孟武伯が聞いた、「子路は仁なりや」孔子は言った。「知らざるなり。」そこで、また問うた。すると孔子は「子路は、諸侯の国で軍用の調達のきりもりさせることはできるが、仁であるかどうかはわからない。求はどうでしょう。孔子の言、「千戸の町や大家老の家ではその長官にならせることはできるが、仁かどうかはわからない。」では、赤はどうか。孔子が言う。「赤や、束帯して朝に立ち」、客人と応対することはできるが、仁についてはわからない。
仁は、弟子たちのにも難しい。
孟武伯が仁問ふに孔子答ふ由も求も赤も仁たるや如何
『正徹物語』60 今川了俊が言ったことだが、連歌の稽古をしていて、満足のゆく連歌がしたいと、句数をすくなくしていた。それを聞いた二条良基は、了俊の質問状に句数を減らすことは、あってはならぬこと。初心のうちは軽やかに多くの句を詠めば、自ずと上手になると叱った。私にも、良き歌よまんとすることに、手紙を書いて折檻された。了俊はいつでも良基の仰せを口にしては、「これがいかめしき御恩なり」と申された。
二条良基に叱られし了俊いつまでも「いかめしき御恩」と仰せられしを
『伊勢物語』十段 業平は、武蔵国まで「まどひありきけり」。そこでまた、凝りもせず女をつくった。父親は決して賛成ではなかったが、母親は、藤原の出で、業平にめあわせようとした。入間郡、みよし野の里であるので、母親はこう詠んだ。
・みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞ寄ると鳴くなる
すると、男の返し、
・わが方に寄ると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れむ
京に遠くここまできてもなお、男の数寄ぶりはやむことがない。