歌一覧(2022年3月)

3月1日(火)

世界一周一八八万円のポスターに妻と二人で旅に出ようか

おどろきも二日になればやぶれかぶれ妻とはしやげばやがてさびしく

3月2日(水)

戦死塚をめぐり敗者におもひ寄せこころしづかに石(きだ)くだる

セキレイの雌雄(つがひ)かともに鳴きあひて地へ降り空飛び電線にくる

3月3日(木)

短髪の黒髪風になびかせて追ひこしてゆく自転車二台

えりくびのあたりみじかく髪なびけ自転車乙女春したがへて

人の世に熱あれ、人間に光あれ。いまだ差別の失せざりし世に

3月4日(金)

小説に没頭したる数刻を息詰めてゐしかほっと息吸ふ

さきばしる暦にやうやく追ひつけり紅梅散りて桃につぼみも

3月5日(土)

虫だつた過去をぼんやりおもひだす葉つぱなつかし葉脈に触る

肩肌に注射の針の痛みあり春の風はげしき小川に近く

3月6日(日)

血まみれの人魂のごとき紅つばき水流れゆくオフェーリアとともに

白梅のかがやくごとき木の下に『草枕』ひらき陶然とゐる

3月7日(月)

牛蒡色に枯れゆく九十(ここのそじ)()老女(おうな)なり(しん)のごときかわが老いし母

白梅の花の蓬けてかすむ路地ぬけてしづけし水の流るる

3月8日(火)

西風(にし)吹けば余りにつよく吹きすさぶ老いの痩せ()はただ立ち尽くす

春田打ち終へたるところ増えてきて海老名田んぼに土色の風

3月9日(水)

蚊のやうな小さな虫がへばりつく網戸をゆらすいまいましげに

サンダルに安養院まで梅を観に白く(ほほ)けて散らばる花を

3月10日(木)

炎に焼かれ阿鼻叫喚の(うち)にある「死」と「生」みずからの手には選べず

これもまた想像しがたき過去の一つおもへば平和に慣れすぎたるか

3月11日(金)

みづに死にいまだしづまらぬたましひのひかりただよふみちのくのうみ

たましづめの薔薇のはな前後の籠にのせ自転車が走る海への道を

木蓮の毛羽だつつぼみふくらみて三月十一日春にちかづく

3月12日(土)

くちびるからバナナのひもがたれてゐる朝の妻けふはしあはせ顔なり

茅ヶ崎へJR相模線にゆれてゐるほのぼのと春の線路のうへを

3月13日(日)

人の世の情けに頼り生きて来しこの世の外は花ざかりなり

をちこちに梅の花咲く段丘崖心ぬくもり坂にたたずむ

3月14日(月)

鴨どりの落ちつきのなくさわぎをり春到来は望郷を呼ぶか

老いの()によろけてあゆむ路傍には愛らし小さな酢漿(かたば)()の花

3月15日(火)

(とろ)()汁の饐ゆるを喰らひくちびるにもの言ひがたき痺れありけり

いち早く木蓮の花(わら)ふ木のぶさいくなれどいのちの花なり

鴨どりはいまだ発たずに数十羽落ちつきのなく川さわぎ合ふ

3月16日(水)

ひとつだけ花を着けたる木蓮の木のもとに立ち老いの息()

畔ゆけば天人唐草の花の咲くむらさき小さきはなびらひらく

3月17日(木)

揺さぶられまた揺さぶられ跳び起きてまた揺さぶられ息吐く間なし

脱けだしまもない妻のふとんなりたたまうとしてふとんに埋まる

春昼や木蓮白き花立てて

3月18日(金)

いきなりの妻の嚔の三連発朝から妻の圧高めなり

木蓮の白き数個の花濡れてきよらなり傘を小雨が濡らす

3月19日(土)

モクレンの厚手の花の白き色まとふてみたしそのはなびらを

昨日の寒さに変はりあたたかし木蓮は花芽を脱ぎ棄てて咲く

3月20日(日)

生きてあらば五十路のきみと茶を喫すほのぼのとした春もあるべし

木蘭の花咲く枝を仰ぎをりああ若き日のままにきみは笑ふ

3月21日(月)春彼岸

海棠の小さき木にも春がくる赤き莟の風にゆれをり

いつのときも心に歌を鳴らしをりこよひは哀歌(エレジー)さびしき調べ

3月22日(火)

桜かくしの雨ふる町をバスに行くゆられて窓に枝にちかづく

枝、枝にさくらのつぼみふくらみて雨にけぶれり少しく赤く

3月23日(水)

廊下のかどに立つてゐるのは戦争か怒りもて憂ひもて宇克蘭おもふ

鴨どりのまだゐる川の流れには淵に淀みあり深みに誘ふ

3月24日(木)

朝の日のひかりかがよふさねさしの国にも春のいのちが点る

水色のワンピースの少女スキップに跳んでゆく春、空の終てまで

3月25日(金)

人類の滅ぶる朝も木蘭は白き花着け陽を浴びてゐむ

みちのくの春に先だち九十(ここのそ)()七つの伯母の逝きたまひけり

3月26日(土)

しづかなる安養院の庭の木に、花咲きはじむ。枝垂れ桜に

胸のうちになにやらしれぬ重きもの、わだかまりをり。悶々として

3月27日(日)

をちこちに染井吉野の花が咲くぽつりぽつりと三分がほどに

花ふぶきもよきものなれど老いぼれの目には三分ほどの桜がよろし

3月28日(月)

春風の気儘に吹かれ落下する白木蓮あはれ花びら散らばる

根っこごと流されて中洲にたどりつく女の姿態のごとき寒木

毛羽だてる殻を残してひらきけりむらさき木蘭清逸にして

3月29日(火)

薬缶より湯気たつ音のしづかなり珈琲店の主人(あるじ)語らず

駿府城の石垣のさくら咲きみちて旅の二人のこころしづまる

深堀に緋の色の鯉浮かびくる(ひめ)御前(ごぜ)なるか堂々として

杉の木を鉄器に削り巧みなり弥生後期の稲作の跡

どんよりと曇る駿河の登呂の里子ども躍れり家族たのしげ

二千年前の水田に稲育てわが祖も住む邑ありにけり

3月30日(水)

三保へむかふ水上バスは両側にかもめ率ゐて春の海ばら

清水港に停泊してゐるまぐろ船、海洋探査船春の日の色

水上バスにゆられて遠く仰ぎ見る不二のいただき雪被きをり

椰子の木の木陰のベンチに妻とふたりソフトクリームを舌に舐めづる

静岡(しづ)鉄道(てつ)の沿線のさくらのかがやきに黄色い電車に運ばれてゆく

静岡はどこか明るいひかりあり芽吹きはじめし木々もはなやぐ

3月31日(木)

鴨どりよいつ飛び発ちし。いつかはとおもひしものの さびしきものを

鸊鷉(かいつぶり)に聞けどせむなし。さがみ川の流れさびしき 鴨去りし春