歌一覧(2021年8月)

8月1日(日)

照り葉木の()(むら)をこぼれ腕をやく夏のひかりの暑し、暑し

脳髄も灼かれて大和法隆寺の諸仏に出逢ふ仏の背にも

大国主大神木像に手を合はす神秘の像の愛らしくして

聖林寺十一面観音像の表情の厳しさ東京を厭ひたまふか

8月2日(月)

起き抜けは痴呆のごとし日日(にちにち)の倣ひすら亡失するときがある

リビング・ルームをわがもの顔に飛び回る小蠅よここは俺の家だぜ

わが家のゴミから生まれし小蠅ならば家族かいや否、殲滅をせむ

8月3日(火)

朝焼けは薄桃色から橙色(たうしょく)に雲を染めけさは至極の時間

南より吹き入る風の湿り気を帯びたる風は人を弱らす

素足にて歩けば床の絨毯の湿り感ずる子の誕生日

あの日から三十一年あれこれとありしが楽しき日々も重ね来

8月4日(水)

九階のベランダに鳴く油蟬日の沈むときひときは高く

中庭のあけぼの杉に生まれたる蟬とおもへば親しきものを

樹の幹と空中に過す十日ほど腹部鳴動ひたすらなりき

土の内に七年を過ごす幼虫に蜜のごとき時間(とき)あらばよきかな

8月5日(木)

ひよどりの三羽が中庭(パティオ)をかけぬけるいつものやうに朝がはじまる

朝顔の咲く家のまへをとほるとき老いのこころのかろやかならず

佐渡に渡る世阿弥元清 晩年の翁のすがたおもひみがたし

8月6日(金)

八月六日蛇口の水はぬるくして原爆の日も朝歯を磨く

水を乞ひ死にゆくものをおもひをり

炎天に立てよけふこそ太陽のひかりにおもへ滅びのときを

滅亡の都市を市電の走りゆく

8月7日(土)

明治維新の汚点の一つと思ふなり六地蔵の首いまも戻らず

その神のすがた知らねど素戔鳴(すさの)()より牛頭天王がよし不可思議の神

無花果の実らぬ木下妻も老い

8月8日(日)

台風の進路変はれば雨の量予測より減るそれでもどしやぶり

内廊下の床には蟬の死ににけり台風の雨を避けて入りしか

今日もまだ腕は痛いと妻はいふ肺腑をえぐる痛さにあらねど

梅ジュースは免疫力の素なりと娘が言へば腹こそばゆき

8月9日(月)

八月九日、長崎の街に悪逆のひかりあり人を殺すひかり

圧しくる天の力に抗へずあばらあらはに痩せ(ぢぢい)ねむる

夏ぶとん掛けての昼寝(ひるい)に腹渋るさつき氷菓を(たう)ぶるゆゑか

懐かしき人からの電話重なりて今日はなんだかたのしき日なり

8月10日(火)

エアコンの逆流音になやまされいく(たび)も覚むここは地獄か

熊蟬もあけぼの杉に鳴きはじむ油蟬はをれど熊蟬見えず

早速に逆流防止弁を注文する地獄の釜から解放されたし

8月11日(水)

稲の葉のささやき、水の流れの音、蟬のこゑする田の畦にをり

熊蟬の鳴く声けふは聴こえざるあけぼの杉もさびしげにして

いささかも秋を感ずることもなく暦は秋と挨拶に書く

8月12日(木)

三十三年たてばそれなりに古びたるこの墓に俺の名も刻まるる

向かひ山の木の葉幾本も枯れてゐるなんの兆しか人の世滅ぶ

小さき文字に新宮の路地の物語書きて死にする中上健次

8月13日(金)

朝明けは雨の音にて湿りあり東アジアの小国に起居す

亜熱帯化したるか雨の多くして南の蟬も混在してゐる

フラミンゴ勢ぞろひして踊りだす夏の休みの房総半島

8月14日(土)

薄墨色の雲忙しげに動く空あかるき雲がときをり覗く

雨をふらす雲のかなたに青き色わづかなれども希望の如し

少しでも雨止むときがあれば鳴くアブラゼミいのちの雄叫びを上ぐ

8月15日(日)

無謀なる戦争の果てを生き延びて母は在る八十九歳小さな(ばばあ)

この日こそ少しはものを考へよ靖國神社も豪雨にけぶる

激しき雨がたびたび通過する敗戦の日は(かうべ)を垂れる

梅雨末期の如き豪雨の日々つづく天上大風雨師ふきげんなり

電柱に烏鳴き秋虫の声するにまだ雨止まず夜に入りゆく

8月16日(月)

雨の日のつばめの胸毛むくりむくり白く愛らし幼きつばめ

足弱の老人三人(みたり)の嘆き節庭の老松に笑はれてゐる

勝善寺墓地には土鳩の群れがゐる近寄れば飛び人されば戻る

けたたましき音たてて鳩の群れが翔つ盆の送り日人多く来る

8月17日(火)

笹の葉をはつか揺らしてふる雨を旅の宿りの窓に見てをり

山の湯の露天の朝はしづかなりみぞはぎの紅濡れて沈めり

8月18日(水)

朝の湯の露天は雨粒大きくて髪なき露頂を容赦なく打つ

木陰には双対道祖神濡れてゐる松本民芸館雨のしたたる

展望台の視界に常念も穂高も槍も雲の中なり頂き隠す

信州松本ここもめぐりの山高し

8月19日(木)

旅の疲れはあくる日からかどことなく怠いぞ今朝は渋き茶を喫む

昼に寝る時間も常よりながくして午後四時こよひの米磨ぐ時間

8月20日(金)

蛇口より流るる水のいつのまにか冷たく感ず夏過ぎゆくか

(あした)から懸命に鳴く蟬の声最期のおもひを籠めて鳴き継ぐ

ひぐらしの声も聴こえて夕日暮れそろそろ秋の領分に入る

8月21日(土)

まだ青き稲田のそよぎ少しだけ熟れ穂の香する道を来にけり

いやこれは夏の雲なりむくりむくり灰色雲は軍の船団

旅かばんを新調せむとの相談す夜の卓子(テーブル)に世界地図ひらき

雲の動き速ければ灰色の雲に乗り海のかなたのニライカナイへ

8月22日(日)

尿に起き窓をひらけば秋虫の鳴く()闇に満つうしみつどきなり

老体になればか必ず夜に一度小便に起つ夢より醒めて

ストーリーは忘失せしも悪夢にはあらずただただあかるき夢なり

8月23日(月)

不覚にもよだれに汚れねむりけり暑さは老いの力を奪ふ

海山のあひだに住まふあやふさを殊に覚ゆることしの夏は

少しづつ壊れてゐるかわが(なづき)ドアの鍵穴の位置に惑ふ

8月24日(火)

あまき香を風に残してゆく少女自転車たちまちわれを追ひ越す

夏の雲よそろそろ秋の雲がくるとんばう来てゐる稲田の上に

8月25日(水)

猫じやらしの穂の赤らめばそこは秋褐色のバッタ草生に潜む

相模川の流れの濁りいまだ消えず濃みどり色のあやしき流れ

亀が浮く濁り川昼を澱めるに鵜が着水す四羽の黒鵜

8月26日(木)

さるすべりの花なほ赤くマンションの中庭に立つ夏まだ行かぬ

風ふけば百日紅の花落ちてもの侘びしきに堪へてゐにけり

暮れ方に夕刊取りに階段をくだるときこころあやしく動く

夕焼けをねぐらに帰る鳥の群れ

8月27日(金)

稲の穂のそよぎの音のさゐさゐとたださゐさゐと往古の如く

熟れ穂の香なつかしくして二千年ほど前の田に立つわたくしがゐる

水田に稲を育む術を手にわが祖たちはこの列島に住む

猛暑にも歩けば美がある風出でてわれにまつはり黄揚羽の飛ぶ

蟬鳴くやこゑにさびしき日暮れどき

8月28日(土)

夏草の刈られむきだしの空間に夜のくれば虫(さは)に鳴く

部屋ごもり淫事にはげむ若さなし時すぎゆけば已むなきことか

橙色におぼろにかすみ暮れてゆく蜥蜴消えたる中庭(パティオ)の木陰

8月29日(日)

けさ方も蚯蚓干乾びころがりぬ一夜鳴き続けしみみずなるかも

萩の花咲きてゆらげる長き枝あまたが風に上下左右す

吾亦紅かざれば秋の到るべし

8月30日(月)

蟬の翅落ちてしづかに透りけり

蟲のこゑ終夜鳴き継ぎ鳴きやまずわが就眠の時削りをり

蟬の声鳴き熄むときの静寂は季節(とき)の移りをもの思はする

8月31日(火)

蟬につぎ蚯蚓あひつぎ討ち死にす数多のみみず道に干乾ぶ

相模川橋梁の下を飛ぶ鷺の黒き脚、しなやかなる純白の體

蓮の花咲くや寄り来る蜂の音