暑い。暑い。
ヘアピン坂を幾度も上り女神湖へしづかなる水の面なりけり
九十九坂を上りつめたる蓼科山。女神の姿に夕暮れにけり
牧場の遠くに牛の寝転びて尾を振り憩ふところ見えたり
蓼科の牧場に数頭の乳牛ありソフトクリーム舌に舐りて
『論語』郷黨一〇 郷人の飲酒には、杖者(杖をつく老人)出づれば、斯に出づ。郷人の儺には、朝服して東の階段に立つ。
郷人の内にも礼儀がたいせつなり飲酒、追儺にも礼儀あるべし
『正徹物語』210 どのような事を幽玄体と言えばよいか。これが幽玄体であると表現や内容で明確に言えることではない。行雲廻雪体を幽玄体と申しますので、空に雲がたなびき、雪が風に漂う有様を幽玄体と言うのがよいか。
定家の愚秘抄に「幽玄体を物に譬えて言うなら、ちょうどこんなものである。唐土に襄王という王がいた。ある時、襄王が昼寝しようといって、午睡をしているところへ、神女が天から降りてきて、夢がうつつかはっきりしないまま、襄王と契りを結んだ。さて別れの時が来て襄王は名残を惜しんで恋慕したところ、神女は「私は天上界の天女である。前世からの約束があり、今ここに契りを結んだ。地上には留まれない」と飛び去ろうとしたので、襄王は恋慕の思い抑えかねて「それならば、せめて形見を渡してください」と言うと、神女は「私の形見としては、巫山という宮中から近い山がある。この巫山に朝にたなびく雲、夕方に降る雨をご覧になれ」と言って消え去った。この後、襄王は神女を恋慕して、巫山に朝にたなびく雲、夕暮に降る雨を見やりなさった。この朝の雲、夕暮の雨を見やるような姿をこそ幽玄体と言うのがよいと書いてある。
つまり、どこが幽玄であるかという事は、各人の心中にあるはずだ。ことあたらしく言語で書き表し、心中で明らかに分別するような事ではない。内裏の紫宸殿の花盛りに桜が咲き誇っているのを、衣袴を着た女房四、五人が見やっているような有様を幽玄体というのがよいか。これらを、「どこが一体幽玄であるか」と尋ねるとしても、「ここが幽玄であろう」とはできない光景である。
ただでさえ分かりにくい幽玄体であるが、いっそう分りにくくしているようだ。
幽玄体をいかなるものとこと問へば襄王や女房に寄せて語りぬ
『百首でよむ「源氏物語」』第三十六帖 柏木
・いまはとて燃えむ煙も結びほれ絶えぬ思ひのなほ残らむや 柏木
・立ち添ひて消えやしなましうきことを思ひ乱るる煙くらべに 女三の宮
女三の宮は出家してしまう。柏木は病み弱り、死んでゆく。
女三の宮の産んだ子、実は柏木を父とする子だが、その子を大事に育てる源氏である。
・誰が世にか種はまきしと人問はばいかが岩根の松は答へん 光源氏
女三の宮を詠んだ歌である。
柏木の子を抱くわれの心のうちさしてはなやかならず嘉せど