2024年6月27日(木)

曇り空だ。

  朝からピーチュピチュと鳴きたるは(ひよ)が似合いの相棒さがす

  このさきに(ひよ)の相棒うづくまるピーチュと鳴けばピーチュと応ず

  枝ごとに花の残滓を付けたままそのまま育つどこか汚れて

『論語』子罕九 孔子が言う。「鳳鳥至らず、河、図を出ださず。吾れ已んぬるかな。」
鳳凰は飛んでこないし、黄河からは図版も出てこない。私もおしまいだね。

  現実に鳳凰飛びこず黄河から図版もいでず我もをわりか

『正徹物語』175 寝起きなどに定家の歌を思い出してしまうと、物狂になる心地がする。屈折して巧緻な風体を詠むことでは、定家の歌ほどのものはない。こういう名人の歌は、詞の外にかげがそひて何となくうち詠ずるに哀れに覚ゆるなり。六百番歌合の「猪に寄する恋」という題で、このように詠んだ。
・うらやまず臥す猪の床はやすくとも嘆くも形見ねも契りを

その意は、昼は一日中恋慕して悲しみ、嘆くことが恋人の形見である。夜も一晩中まんじりともしないので心を砕くのも、前世からの宿縁であるから、私は猪が床に臥してすやすやしているのも羨ましくはない、というのである。本当にしみじみとする内容だ。
・友千鳥袖の湊にとめこかしもろこし舟のよるのねに覚に

といえるは、
・おもほえず袖に湊のさわぐかなもろこし舟のよりしばかりに
という伊勢物語の和歌を本歌にして詠んでいる。

  定家の歌に伊勢物語を詠みこみし一首ありけり港にさわぐ

『百首でよむ「源氏物語」』第一帖 桐壺(きりつぼ)
・限りとてわかるる道のかなしきにいかまほしきは命なりけり 桐壺更衣

  あはれよの死にするときのとほからず光源氏をはぐくむことも

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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