2024年5月21日(火)

朝から晴れて、気温も上昇するらしい。けれども夕刻より雨が降るらしい。

  夜の廊下に交錯せしは老母なりもののけのごとく鈍重に動く

  脈絡なく手足それぞれに動くらし老婆廊下をふらりふらり

  真っ暗なる夜の廊下をさまよふは九十二歳の老婆とおもふ

『論語』述而三三 孔子が言う。「聖とか仁などというのは、とてものことだ。ただ、行ってあきることがなく、人を教えて怠らないということは、言ってもらっても宜しかろう。」公西華は言った。「正に弟子学ぶこと能はざるなり。」

  聖と仁。為して厭はず、教へて倦まず弟子らに真似できず孔丘のみかは

『正徹物語』141 六百番歌合で定家卿は、「歳暮」の題でこう詠んだ。
・たらちねやまだもろこしに松浦舟今年も暮れぬ心づくしに

「歳暮」の題で「もろこし」「松浦舟」を詠んでいるのは、なぜか。想像するに、親が唐土に居て、迎えを待っているところ、年も暮れようとするのは、不安気には漠然と思えるが、それにしても実際は何を詠んだのか判然としないでいました。

昔、松浦宮物語という物語草子を見ましたところ、松浦の中納言という人が、遣唐

使の身分で、唐土へ渡ったことを描いていた。これを下敷きにして、定家は詠んだのだ。同じ六百番歌合に、
・夜もすがら月にうれへてねをぞなく命にむかふ物おもふとて

と詠んでいる。この「命にむかふ」という詞も、松浦宮物語にある詞だ。このように定家の歌は、本説を踏まえて詠んでいる。

  本絶を踏まへて一首をなすといふ定家中世の名人なりき

『伊勢物語』九十一段 月日の行くをさへ嘆く男が、弥生のつごもりがたに詠んだ。
・をしめども春のかぎりの今日の日の夕暮れにさへなりにけるかな

  三月のつごもりの日に今日のみの春を惜しみてうたふべらなり

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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