2024年5月16日(木)

曇り、のち晴れといっていたが、なかなか晴れない。

  夜目に見ゆ廊下の影の大きくて立ち竦みをり寸時の怖れ

  わが影と思へぬ大き影がみゆ天上灯火近々光る

  闇の中へ消えゆくごとしわが影に従ひ歩むこのドアの前

『論語』述而二八 互郷の村人はまともに話がしにくい。そこの童子に孔子は会ったので、門人がいぶかった。孔子が言うには、やってきたことを買う。去ってゆくのは賛成しない。あの子どものことをいぶかるとは、ひど過ぎる。人がその身を清くしてやってくれば、その清さをかう。帰ってからのことは保証しない。

  互郷の人は与にしがたしさあれども童子には会ふ孔子に余裕あり

『正徹物語』136 「鵙の草ぐき」は、「住む所を忘るる恋」にも「途中に契る恋」にも通用する。「媒を憑む恋」も難題である。

  わが目には鵙の草ぐさに見えざるにたしかに恋のありかと思ふ

『伊勢物語』八十六段 年若い男が、同じ年若い女と情をかわしあっていた。たがいにまだ親がかりだったので、遠慮して関係を絶った。幾年かたち、男が女へ歌を送った。
・今までに忘れぬ人は世にもあらじおのがさまざま年の経ぬれば

男は、昔の思いをとげようと思ったのだろうか。

うーん、難しい問題です。年が経っていることを考えれば、女はすでに嫁いでしまったとも思える。相手も独り身なれば、昔を思い出すこともあるだろうし。

  年経ても思ひはとどけ幼き日別れし彼の人を恋ふなり

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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