2024年4月5日(金)

雨だ。曇りのはずでは。せっかく桜が咲いたところだったのに。

堀田善衞『定家明月記私抄』を読んでいると、私の祖先は公家、貴族などではありえないと思うようになるものだ。公家、貴族もたいへんな時代だが、わが祖は、怯えて殺される庶民か、きっと卑賎の者であったのではないか。手に職などないし、芸に携わることもできない。

  五条河原に骨にまみれてわれありとおもふものから貧窮の者

  平安時代のわれを想へば泣けてくる貴族にあらず武者にもあらず

  河原者とさげすまれつつ芸を売るその仲間にもはじかれてわれ

『論語』雍也二〇 孔子が言った。「知っているというのは好むのに及ばない。好むというのは楽しむのに及ばない。」

  知るよりも好む、好むより楽しむ境地を語る子の(のたまは)

『正徹物語』99 「祈る恋」という題に、こんなふうに詠んだ。
・あらたまる契りやありと宮造神をうつして御禊せましを

これもまた昔から人が詠んだことのない内容だ。

  神様の前にて手を打つ鈴鳴らす祈るはわれの恋にあらずや

『伊勢物語』四十九段 男が、妹に恋をした。異腹であろうが、すでに禁忌の時代である。
・うら若みねよげに見ゆる若草を人の結ばむことをしぞ思ふ

男がこう詠んだ。妹は返した。
・初草のなどめづらしき言の葉ぞうらなくものを思ひけるかな

どうやら妹の知恵が勝っているように感じられる。

  兄、いもうとの恋の様ねよげに見ゆるは兄のあやまち

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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