2024年4月16日(火)

雲があるものの、暖かい。今日は午後二時三十分から診察だ。

  わが家には時計が三つそれぞれに微妙に違ふ時を刻めり

  腕時計を含めて四つの時刻む帰還するときどれが本物

  妻の帰りが微妙に違ふは小田急線の時刻表替りし影響ならむ

『論語』雍也三〇 子貢が聞いた。「(も)(よ)く博く民に施して能く衆を(すく)はば、如何。仁と謂ふべきか。」孔子が答える。「何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶諸を病めり。夫れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己を達せんとして人を達す。身近にくらべることができる。それが仁だね。」

  博く民に施し衆を(すく)はばどうだらう堯舜も及ばぬ仁の道なり

これで『論語』雍也第六を終る。明日からは述而第七に入る予定だ。

『正徹物語』109 「初雁」という題に、このように詠んだ。
・払ふらんそがひにわたる初雁の涙つらなる嶺の松風

「そがひ」は、後ろに追って続くの意。後から追うように飛ぶのを「そがひに渡る」という。「かのみゆる池辺にたてるそが菊の」(拾遺集1120)の「そが菊」は、俊頼・清輔等の流では「承和菊」であり、黄菊だ。また別の説では、九日に遅れた十日の菊をこう呼ぶ。三十日を「みそか」というので、十日は「そか」にんる。俊成の家では、「池のはたに、ちとかたむきてさきたるを、そが菊といふ。」「そがひにたてる峯の松」も、前後重なるように立っているのである。

さて「梅が香を幾里人か」「数おほきおくてのうゑめ」などは、「をかしき」歌である。しかし、これは百首歌の地歌だ。「はらふらんそがひに渡る」とか「ながれての世をうぢ山」という歌こそ、私の本懐の歌だ。和歌は、吟じてみると、詞の続き具合も和歌らしく自然であり、吟じても滑らかに下り、奥が深く優美であるのが良い。そして究極の歌は、論理を超越したもの。理解しようとしてもどうしようもない所にある。詞で説明することではない。自然に理解するものだ。

  理の外に至極の歌ありいかんともできねば自然と納得すべし

『伊勢物語』五十九段 男が、都を離れ、東山に隠れ棲むことにした。
・住みわびぬ今はかぎりと山里に身をかくすべき宿を求めてむ

男は隠遁したが、やがてひどく患った。身もたえだえになり、人々は男の顔に水を注いだ。
・わが上に露ぞ置くなる天の川門わたる舟の櫂のしづくか
こう詠んで、男は息をふきかえした。

  歌ふことの甲斐のひとつか病む男にも水そそぎけり

  水そそぎ息ふきかへす男あり京を離れて隠遁しけり

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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