雲があるものの、暖かい。今日は午後二時三十分から診察だ。
わが家には時計が三つそれぞれに微妙に違ふ時を刻めり
腕時計を含めて四つの時刻む帰還するときどれが本物
妻の帰りが微妙に違ふは小田急線の時刻表替りし影響ならむ
『論語』雍也三〇 子貢が聞いた。「如し能く博く民に施して能く衆を済はば、如何。仁と謂ふべきか。」孔子が答える。「何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶諸を病めり。夫れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己を達せんとして人を達す。身近にくらべることができる。それが仁だね。」
博く民に施し衆を済はばどうだらう堯舜も及ばぬ仁の道なり
これで『論語』雍也第六を終る。明日からは述而第七に入る予定だ。
『正徹物語』109 「初雁」という題に、このように詠んだ。
・払ふらんそがひにわたる初雁の涙つらなる嶺の松風
「そがひ」は、後ろに追って続くの意。後から追うように飛ぶのを「そがひに渡る」という。「かのみゆる池辺にたてるそが菊の」(拾遺集1120)の「そが菊」は、俊頼・清輔等の流では「承和菊」であり、黄菊だ。また別の説では、九日に遅れた十日の菊をこう呼ぶ。三十日を「みそか」というので、十日は「そか」にんる。俊成の家では、「池のはたに、ちとかたむきてさきたるを、そが菊といふ。」「そがひにたてる峯の松」も、前後重なるように立っているのである。
さて「梅が香を幾里人か」「数おほきおくてのうゑめ」などは、「をかしき」歌である。しかし、これは百首歌の地歌だ。「はらふらんそがひに渡る」とか「ながれての世をうぢ山」という歌こそ、私の本懐の歌だ。和歌は、吟じてみると、詞の続き具合も和歌らしく自然であり、吟じても滑らかに下り、奥が深く優美であるのが良い。そして究極の歌は、論理を超越したもの。理解しようとしてもどうしようもない所にある。詞で説明することではない。自然に理解するものだ。
理の外に至極の歌ありいかんともできねば自然と納得すべし
『伊勢物語』五十九段 男が、都を離れ、東山に隠れ棲むことにした。
・住みわびぬ今はかぎりと山里に身をかくすべき宿を求めてむ
男は隠遁したが、やがてひどく患った。身もたえだえになり、人々は男の顔に水を注いだ。
・わが上に露ぞ置くなる天の川門わたる舟の櫂のしづくか
こう詠んで、男は息をふきかえした。
歌ふことの甲斐のひとつか病む男にも水そそぎけり
水そそぎ息ふきかへす男あり京を離れて隠遁しけり