今日も朝から青天。気温も上昇するらしい。
昨夕、味の塩焼き。
焼き網のうへには身のひきしまる鰺が焼けたり尾びれの焦げて
鰺の目が焼網の底ひに落ちてゐる底ひの目玉がわれを睨む
かたち崩れ鰺の身喰はれ骨ばったからだにまだ身が付いてゐる
『論語』雍也二八 孔子が南子(衛の霊公の夫人。美人だが不品行の評判)に会った。子路よろこばず。先生は誓いをされ「よくないことがあれば、天が見すてるであろう、「天これを厭たん。」
南子に会ふがそんなに厭か子路に言ふ否きところは天これ嫌たむ
『正徹物語』107 道風・佐理・行成を皮・肉・骨に宛てているのは、道風は「骨髄にとほりたる体」、佐理は「肉の体」、行成は「皮の分」を書いたからだ。「三人大略同時の者なり。」道風の晩年に佐理が現れ、佐理の晩年に行成が現れた。
伏見院は、漢字は、道風と佐理の書風を模倣した。仮名は自分で創出工夫した。道風・行成の仮名が、世間にあるのは、「ちくちくとしてねずみの足形のやうにありしなり。」「ひきつづけてうつくしく、ふくふくとしたる仮名は、伏見院が創出した。これ以後は御所風を学んだ。後伏見院、花園法王などは父の伏見院風の書をした。六条内大臣有房の筆跡は伏見院の宸筆と変わりない。世間の人は見わけがつかず、伏見院の書として秘蔵する。仮名がよく似ている。久我家の先祖。禅林寺中納言と若い頃は称した。清水谷家なども、有房の門下より出た能書家である。
道風・佐理も、中国の書を伝えて書いた。伏見院の宸筆は、仮名・漢字双方に達したものだ。趙子昂や張即子が書いたものと比較すると、運筆は変わらない。床の間の板には牧谿の三幅一対の絵と銅製の調度三点セットを置き、金箔銀箔を押した屏風を立てた座敷の室礼のように、和漢の長所をともに持っているのは、伏見院の宸筆である。子の青蓮院門跡尊円親王の筆跡は、座敷に簾を懸けめぐらし、金箔銀箔を押した屏風障子を置き、日本製の調度だけを置いた室礼のようだ。曽孫の御光厳院の宸翰は、繊細で美しいが、伏見院の宸翰と比較すれば、枯淡にして高貴なる趣は到底及ぶものではない。後光厳院の書は、美しい女房を几帳の向こうに置いたようである。伏見院の書は、立派な男が礼服を着て、紫宸殿に登場したかのようだ。几帳に隠れた女房は、室内で見ると優美である。しかし公式の場所に出れば、立派な男が装束を着ているのが、気高く堂々と見える。伏見院の書はそんな風だ。
高貴なる装束を着する伏見院気高く堂々なりとその書を説けり
『伊勢物語』五十七段 男が、「人知れぬもの思ひけり。つれなき人のもとに詠んだ。
・恋ひわびぬ海人の刈る藻に宿るてふわれから身をもくだきつるかな
男に、つれない女はこの歌にどう反応したのだろう。私は応じたように思うのだが。
刈る藻に宿るわれからのように砕けむとの思ひあればこそ女応へめ
相当の字余りだが。応えたいものである。