2024年3月7日(木)

曇りというところか、それでも寒い。

『HHhH―プラハ、1942年』(創元文芸文庫)読了。骨のある本であった。HHhは、「ヒムラ―の頭脳はハイドリヒと呼ばれる」という意味だそうだ。悪辣なナチスの高官であった。そのハイドリヒを殺害する「類人猿(エンンスラ)作戦(ポイド)」、ロンドンに亡命中のチェコ政府によって投下されたパラシュート部隊員のヤン・クビシュとヨゼフ・ガプチークの二人が暗殺役だ。とりあえずハイドリヒは死ぬが、その後のナチスの反撃のすさまじさ。それを2008年の視点をまじへ作者、語り手が重要に働き卓抜な小説になった。

  雲重くわが脳髄も重くしてプラハの街をさまよふてゐるる

  リディツェ村は壊滅的に破壊さるナチスいまさらに許し難し

  白梅紅梅咲く家ありてふらふらと読書の息抜きに団子買ひきぬ

『論語』公冶長一九 子帳が尋ねた。楚の宰相・子文は三度令尹になったが、嬉しそうな顔もせず、三度辞めさせられたが、怨みもせず前の政を、必ず新しい宰相に告げました。いかがでしょう。そうすると孔子が答えた。誠実だね。また子帳が聞いた。仁でしょうか。孔子の答え。智者でないものを、どうして仁といえようか。崔子が斉の君主を殺した時、陳文子は、四十頭を捨てて立ち去った。よその国でまた崔子と同じいって、また別の国へ行ったものの、ここでも崔子と同じだと国をさった。この行動はどうでしょう。と聞かれ、孔子が答えた「清し」「仁なりや」「智者ではない、どうして仁といえようか」。「仁」に厳しい孔子の姿がある。

  (し)(ぶん)(ちん)文子(ぶんし)もその行ひ忠・清なれど仁にはあらず

『正徹物語』71 「負くる恋」の題で、「飾磨川人はかち路」と詠んだら、重阿がひどく立腹した。人を勝たせたのであるから、自分が負けたのはおのずと知れる。
・飾磨潟のぼる小船の苦しきや人はかち路にかかる川波 草根集4526

  正徹と重阿の仲は確執あり歌会の勝ち負けどうでもよろし

『伊勢物語』二十一段 男と女、深く愛しあっていた。こと心などありえなかった。しかし、ある時女の心に隙間ができてしまった。女の歌、
・出でて往なば心かるしと言ひやせむ世のありさまを人は知らねば

歌を書きつけ女は出ていった。男は悩んだ。涙をこぼし、女を探した。そして詠んだ。
・思ふかひなき世なりけり年月をあだに契りて我や住まひし
・人はいさ思ひやすらむ玉かづら面影にのみいとど見えつつ

時が長くたった。女から、男の沈黙に耐えられなくなったのだろうか、歌が詠まれた。
・今はとて忘るる草の種をだに人の心にまかせずもがな

男は返した。
・忘れ草植うとだに聞くものならば思ひにけりと知りもしなまし

そうしたやりとりを経て、二人は以前より深い仲になった。

  男が、

  ・忘るらむと思ふ心のうたがひにありしよりけにものぞ悲しき

  女の返し、

  ・中空に立ちゐる雲のあともなく身のはかなくもなりにけるかな

  復縁した二人だったが、そののちそれぞれ別の相手を得て別れてしまった。

  歌は七首と多いけれど、なんとなく寂しい章段である。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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