2024年3月20日(水)

春分の日だけれども、北風強く寒い。とにかく風が強い。地下鉄サリン事件から29年。私も危なかったが、かろうじて抜け出た。

  コーヒカップにわづかに残るカフェインの苦みあり朝食の暫時(しばらく)の後

  適温のバスにつかりてくつろげるわがからだときにとけるがごとし

  いまだ暗きに朝がらす鳴く声聴こゆやかましやかましその濁声は

『論語』雍也五 孔子が、魯の司寇(司法大臣)であったとき、原思(孔子の門人、清貧の人であった)は、その家宰になったが、九百の穀物を与えられて辞退した。孔子は「いやいや、それは隣近所にやることだ」といった。

  家宰である原子に粟九百を与へれば辞退す清廉なりき

『正徹物語』84 「風に寄する恋」の題に、次のような歌を詠んだ。
・それならぬ人の心のあらき風憂き身にとほる秋のはげしさ (出典不明だそうだ)

「人の心が冷たく酷であるのは、風のように吹かぬものであるとはいえ、激しく向かってこられると、身を貫くように悲しい。」この歌では、「それならぬ」を際限なく置き換えて試した。「忘れ行く」「かはり行く」とも候補は千も万もある。「忘れ行く」では弱い。「それならぬ」とは、私の知る人ではない、ということだ。はじめはニコニコ愛想がよかあたのに、今は激しく当たるので「その人ではない」もである。「秋」にもよくあう。自分んことに厭きてしまった人は、もうその人ではない。

  それならぬ人とはいづれ「忘れゆく」でも「かはりゆく」でもないこの辛さこそ

『伊勢物語』三十四段 男が、ふりむいてくれない女に詠んだ。
・言へばえに言はねば胸にさわがれて心ひとつに歎くころかな
情けなくもやむにやまれぬ、あわれな男ごころではないか。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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