2024年3月19日(火)

昨日とは変わって曇って寒い。メディカルプラザで採血、診察の日だ。

  すずめ一羽木々を移りて葉がくれに鳴く声嬉し一日のはじまり

  仮面劇の(おもて)を模写する困難もかえつて愉したましひ込めて

  麺麭を喰うにわれは富者とはおもへざるこの世いきがたし貧富の差あり

『論語』雍也四 子華が斉に使いにいった。冉子は、その留守宅の母のために穀物をほしいと願った。(ふ)(六斗四升)を与え、増やして(ゆ)(十六斗)を与えよといわれた。冉子は無断で五(へい)(八十斛)を届けた。孔子が言った。「赤が斉に行く時、立派な馬に乗って、軽やかな毛皮を着ていた。私の聞く処では、君子は困っているものを助けるが、金持ちにはそんなことはしない。」冉子が間違っているのか、子華なのか。少なくとも子華は君子ではない。それとも二人とも君子ではないということか。

  子華、冉子ともに君子にあらざるか急を助けて富めるに継がず

『正徹物語』83 「あまのすさみ」とは、海水を煮て塩を取ったり、海藻を搔き集めたり、貝を拾うといったことをいう。こういう日常の営みを「あまのすさみ」という。
・かきやれば煙たちそふもしほ草あまのすさびに都こひつつ」(『拾遺愚草』1392)「すさみ」は慰みごとの意にもなるので、注意を喚起したか。

  『拾遺愚草』の「あまのすさみ」を読めざるか正徹嘆きてかく言ひたまふ

『伊勢物語』三十三段 昔男、摂津の国莵原の郡(兵庫県芦屋あたり)に住む女のもとに通っていた。女は、今度男が都へ帰ってしまったら、わたしのもとへは二度と来ないであろう。すると男は詠んだ。
・葦辺より満ちくる潮のいやましに君に心を思ひますかな

女は返した、
・こもり江に思ふ心をいかでかは舟さす棹のさして知るべき
ひなびた里の女の歌のよしあしなどと、ばかにしたものではない。どうしてすぐれた返しではないか。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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