2024年12月2日(月)

晴れ。

『古事記』の現代語訳を読む(岩波現代文庫)。蓮田善明が訳したものだが、戦前国文学者としての活躍があり、招集されてマレー半島で敗戦を迎える。しかし、敗戦の責任を天皇に帰し、日本精神の壊滅を説く上官を射殺、自らも拳銃で自殺。ある意味「狂」を実現する。三島由紀夫の師のひとりであり、あの事件の誘いになった行為に危ないものを感ずる人もいるだろうが、この訳文は率直なものであり、詩歌の訳は俗っけもあって洒脱で楽しめる。いい訳本である。『古事記』を現代語訳で読むといったら、この一冊を薦める。

  軒近きところに見ゆる青空に淡き雲浮く夢のごとくに

  あけがたの雲多き空を見はるかすひむがしは闇いまだくらきに

  柊の小さき白き花あまた香る道まがり冬に入りゆく

『論語』子路二四 子貢問ひて曰く「郷人皆これを好みせば如何。」孔子曰く「未だ可ならざるなり。」「郷人皆これを悪まば如何。」孔子曰く「未だ可ならざるなり。郷人の善き者はこれを好し、其の善からざる者はこれを悪まんには如かざるなり。」

  郷人が皆これを好む、あるいは悪むいづれにしてもよからんものぞ

『春秋の花』 森鷗外
・僕にお金が話す時、「どうしても方角がしっかり分からなかったと云ふのが不思議ぢゃありませんか」と云ったが、僕は格別不思議にも思はない。聴くと云ふことは空間的感覚ではないからである。」 『心中』(1911)の断章。

〝『心中』は、鷗外作短編中の白眉であり、また近代日本短編中の屈指である。〟と私は独断している。
 *
・露おもき花のしづえに片袖をはらはれて入る庭のしをり戸

  しをり戸もいまでは見かけず両袖におもく降るかもさくら紅葉葉

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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