2024年11月24日(日)

今日も晴れ。

小倉紀蔵『京都思想逍遥』を読む。出た時(2019)に買った本だが、京都へ行って読みたくなった。「多重主体性」(小倉紀蔵)、「生の鼓動を聞き、生の身顫を感じる」(九鬼周造『人間と実存』解説・藤田正勝)、西田幾多郎「生の肯定」「自由と欲望の肯定」、「述語的多文化主義」「絶対矛盾的自己同一」、今様は「宗教歌であり、同時に思想歌」など面白い指摘が、京都の風土とともに解き明かされている。著者じしんが京都を歩く趣向が卓抜だ。

  京の街をお寺めざして歩みゆくどうも仮の世をゆくごとくなり

  夜の闇にまぎるる歩みこの闇のさきにもっと深き闇を降る段あり

  この木々がすべて紅葉黄葉する京を歩けばわれも狂ふか

『論語』子路一六 (しよう)(こう)、政を問ふ。孔子曰く「近き者説び遠き者来たる(近くの人々は悦び、遠くの人々はそれを聞いて慕ってやってくるように。)」

  葉公政を問へば孔子応ふる近き者悦び遠き者慕ひ来るやうにせよ

『春秋の花』 前田夕暮
・我が友の高橋萬吉老いにけり葱を片手にわれに礼する 『原生林』(1929)所収。
・提灯のはだかびさむし畳のうへおきて物いふ故郷人は  同

「すぐれた帰省詠である。夕暮三十八歳の作。
  *
・扉をひらきつめまひしてわが入りにけり窓なき部屋の一脚の椅子

  わが友も老いにけるかな七十歳を越したる人の皺多き顔

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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