2024年1月24日(水)

寒いがいい天気だ。
堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』上・下(集英社文庫)読み終わる。凄い、熱い、惨い、そしてわくわくする。堀田善衛が「若者」「男」として、戦前、戦中時代がえがかれる。左翼に近いところで留置体験があったり、最後は招集される。日本の戦中を応召するまで、この時代を生きた詩人たちとともに権力に抗したり、肯定したりあれこれ語られる。最後の方で、鴨長明や藤原定家や「乱世」への思いが語られ、この国の戦争の時代への批判があり、その後の堀田善衛につづく話柄もある。ちなみに「白柳君」は白井浩司、「浜町鮫町君」は村次郎、「赤鬼君」は加藤道夫、「澄江君」が芥川比呂志、「良き調和の翳」が鮎川信夫、「冬の皇帝」が田村隆一、「ルナ」が中桐雅夫、「富士君」が中村真一郎、「ドクトル」が加藤周一だったりして、たしかにこの時代の詩人たちの肖像なのだ。

  セクシャルなことも赤裸々にしるしたり「若者」「男」この暴れん坊

  ぷくりぷくり乳房のたかぶり淫楽のはてに誘ふ小説である

   時を経てなほもかがやく戦中の詩人たちの肖像わが生を打つ

『論語』里仁二 不仁者はいつまでも苦しい生活にはおれないし、長く安楽な生活におれない。「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。」

  不仁者と仁者・知者との違ひ言ふ孔子明瞭なり「仁」こそ肝要

『正徹物語』28 長綱百首を為家が判じた。「太郎と呼べば、次郎が頸に乗りて出づるなり」と言った。「題をばさしおきて」その他のことを詠むことを咎めた。「歌は題にむかひて相違なければ、くるしからぬなり。」

  この時代の歌にとりては題が大事題にたがはず詠むべきものを

『定家八代抄』賀歌、哀傷歌
 ・めづらしき光さしそふ盃は(もち)ながらこそ千代もめぐらめ 紫式部
 ・桜花散りかひ曇れ老いらくの来むといふなる道まがふがに 業平
 ・あはれなり我が身の果てや浅緑つひには野辺の霞と思へば 小町
 ・世の中は夢か現つかうつつとも夢とも知らず有りて無ければ よみ人しらず
 ・つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを 業平朝臣

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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