2024年1月22日(月)

雨ではない。晴天であるが、やがて曇ってくるらしい。

  老いらくのたしかに来むと思へるはでこぼこの径にふらつく歩み

  いつしかに千年(ふ)るかこのいのち呆けて惚けて翁の体に

  今日の朝はつぶれたカレーパンを召し上がる妻の機嫌の少しよささう

『論語』八佾二六 孔子が言った。「上に居て寛ならず、礼を為して敬せず、喪に臨みて哀しまずんば、吾れ何を以てかこれを観んや。」これ現代社会にもありそうですね。上に立つもので、寛容でなく、慎みがなく、葬儀に哀しまない者、そこそこいそうだ。

  上に居て寛容ならず慎しまぬ葬儀に哀の心なきもの

『正徹物語』26 「秋ノ夕」の題で詠んだ歌。「うしとてもよもといはれじ我が身世にあらん限りの秋の夕ぐれ」後小松院に合点(評価)を頼んだところ「一生秋光の暮色に心をいたましめ侍る事、哀れにせんかたなく侍り」と感心された。今はこれほどの歌は詠めないだろう。為重卿も同題に「一かたに思ひしるべき身のうさのそれにもあらぬ秋の夕暮」と詠んだ。いい歌だろうということだろう。

  一生秋の夕暮れを喜ばむ正徹よこの世の憂さを逃れて

『定家八代抄』夏、秋上から、
 ・春過ぎて夏来にけら白妙の衣ほすてふ天の香具山  持統天皇
 ・さ月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
 ・夏山のならの葉そよぐ夕暮はことしも秋のここちこそすれ 源頼綱
 ・秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行 
 ・ながめわび秋より外の宿もがな野にも山にも月やすむらん 式子内親王
けっこう有名な歌が多くなった。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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