2024年1月17日(水)

今日は、昨日より暖かくなるらしい、が寒いぞ。

  己が身の軽佻浮薄かるがるとこの世からあの世へ(こみち)のあらむ

  このままに暗きに墜つる妄想に游ぶがごとし宙吊りのわれ

  崖の果てに墜つるがごとき捨身往生われには無理か断崖に佇つ

『論語』八佾二十一 哀公が、社稷を宰我に尋ねた。夏の君は松、殷の人は栢、周の人は栗を使っている。つまり死刑によって民を戦慄させることである。孔子先生はそれを聞いて「成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず」と言ってこれからはこんな失言を繰り返さぬように。

  宰我のことば過ぎたるは咎めずして孔子は二度と失策を許さぬ

『正徹物語』21 「祈る恋」という題で「ゆふしでも我になびかぬ露ぞちるたがねぎごとの末の秋かぜ」と詠んだ。下の句に複雑な働きがあって理解しにくいだろう。さてはあの人は逢うまいと祈っているのであろうという気持ちを表現したもので、定家の家集を開いてみなさい、平板な歌はまったくない。それを倣った。
贈従三位為子に「数ならぬ御禊は神もうけずとやつれなき人の先づ祈りけん」という歌がある。こちらはよく分かるだろう。

  定家の集にある難しさを真似せんか正徹のすすむべき道歩むなり

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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