8月1日(月)
白ワイン一本あけて少し酔ふ父とむすめ修学旅行
クマゼミの鳴動うるさき千年のクスノキ今年も鳴動したり
青蓮院のくすの根もとにたたずみて開門を待つむすめと二人
回廊をよろよろ歩むわが視野に夏のみどりの石庭うつる
知恩院から八坂の塔にたどりゆく真つ青なる空に飛行機雲ゆく
三条大橋にぬかづく高山彦九郎奇矯のふるまひ愛すべきなり
老いの汗じめじめじわじわTシャツを湿らせ抹茶のかき氷喰ふ
8月2日(火)
賀茂別雷命の怒りあるかこの晴れつづき日々猛暑なり
下鴨神社の茶店の緋色の毛氈に腰かけてやはらかき氷を崩す
大木の森に京都の鎮めの風かき氷食むわたしが感ず
京都御所をとぼとぼとゆく老いの軀を守るものなし紫宸殿前
容赦せぬ夏のひかりに灼けたるか腕黒くなるこの三日間
小田原の鰺の刺身を肴にしむすめと一杯かくも旨きか
むすめとの旅終へてすこし寂しくてまだ先へゆく窓に手をふる
8月3日(水)
須坂の義兄より荷が届く。
畑の木に大量の果実ソルダムを噛めば赤き実甘美なりけり
殻を割り青白き蝉の出でてくる姿態なまなましきをおもひみむとす
8月4日(木)
書かねばならぬ原稿一つもてあまし朝から録画のドラマを観てゐる
蟬のこゑけふはしづかに鳴き止みぬ豪雨の兆しいまはみえねど
8月5日(金)
けさ方はあらたなる蟬の穴あらず出尽くしたるか七つの穴に
うつせみのいくつも残る杉の木の根もと訪ぬる子らは少なし
8月6日(土)ヒロシマ忌
ヒロシマの日は広島の酒を飲み死者こそまじへ論議あるべし
夜を徹し老いも子もふくめ議論するそんな場があればすこしはましか
各々に思ひの丈を叫ぶべし誰にも腹にいちもつあらむ
8月7日(日)
どことなくエキゾチックな表情の中国服の女の横顔
指の先が黒き空間に溶けてゐる女もやがて闇に侵さる
葡萄の葉とぶだうの果のした一匹の狐が通るしっぽをふりて
8月8日(月)
早天より蟬鳴くこゑのかしましく立秋すぎても夏盛んなり
かたつむり這いだしてくる雨恋し葉月に入りてあぢさゐ乾く
8月9日(火)ナガサキ忌
あちらこちらに逆さかへりて蟬ころがるナガサキの日は敬虔にして
この日にも地獄の業火長崎の無辜の民殺すひかりありけり
8月10日(水)
こばへが一匹、コバヘが二匹、小蠅が三匹 生ごみの袋に今日は三匹殺す
いつのまにか大量の小蠅に占拠されわれらヒト族コバヘの奴隷
小蠅追ふて右往左往の日々にして人類の叡智やらといづくに去りし
8月11日(木)
安曇野の黄の穂ばらみの畔をゆく稲穂の重みを目に感じつつ
ゆたかなる水の流れに添ふごとくお歯黒トンボ金緑の胴
安曇野の空、夏の雲 古き代のままに稲の穂稔るころほひ
穂高神社に神鶏失せてさびしきに朗々として祝詞読むこゑ
大糸線に踏切の音のひびきあり旅の一夜の更けてゆくなり
8月12日(金)
仁科社の古き世のごとき本殿に参りて涼しこの山の風
神宮寺の滅びてのこる跡どころここにも近代の歪みが残る
ちはやふる神も坐せり仁科の郷山ふところに古社仰ぎをり
十郎の湯につかりつつこの二年のわが来し方をおもひみむとす
十五分の限定がある湯浴みなり温泉もそそくさと入りて出でたり
逸早くすすき穂黄金のかがやきに白馬の村は秋に近づく
蟬のこゑ折をり聞こゆまだ夏のなごりもありて高き木々の間
早稲の香のたゆたひあれば白馬の村に一夜を過ごし来にけり
8月13日(土)
雨ふれば魂なやますごときかな宿りの窓に降る雨ながむ
百年も昨日のごとくに過ぎにけり五竜の峰をめぐる山やま
北信濃の山近づけばここちよき木々の間わたる風しづかなり
高々とロープウェイにのぼりきて尋常尺度に測れぬ山稜
雪渓はなほも筋なす岩稜を雲うごく北アルプスの山
蜩のこゑしづかなる白馬村樹々の影濃く夕ぐれてゆく
八月十三日ひそかに雨のふる夜は迎への盆の花火鳴りをり
盆の夜を旅の宿りに妻とふたり郷土の酒をちびりちびり
六人の侏儒の踊りにまじりたる荻原守衛汗かきてゐる
盆の夜の白馬の村の遠花火さびしくあれば旅人ならむ
遠花火果つれば寂しもう一献池田の酒を冷にていただく
8月14日(日)
この旅に池田町の豊かさを発見する野菜の旨さ、地酒の美味さ
発泡する花紋大雪渓を汲みながら妻とかたらふこの旅のこと
8月15日(月)敗戦忌
七十七年経る今日の空また青くすこしは学べよ敗戦の惨に
この国の近現代に大いなる過誤あればいまの世滅びにむかふ
8月16日(火)
古びたる父の墓石に汚れあれば夏の日差しのなかを拭へり
わが家の名を刻みたる墓石にしばし頭を垂る空白の時間
池田町の万願寺たうがらしを絵に写すしなのの国魂わが裏に来よ
8月17日(水)
あけぼの杉の下にたたずみ樹を仰ぐ少年がゐる若きわれかも
この樹にはくわんおんさまの住むといふ仏の時間を少年禱る
8月18日(木)
奇峰突兀として夏の空さがみ大山の背後の白雲
ここ数日の川の激しき流れなりいたづら好きの河太郎ひそむ
8月19日(金)
観潮楼歌会はここに行はれ伊藤佐千夫も団子坂のぼるか
団子坂急なる傾斜を斜めになり上る夫婦の息荒く吐く
D坂は明智小五郎の解き明かす殺人事件あり坂降りてくる
8月20日(土)
一階の扉のまへに裏返る蟬の死殻触るれば息ある
触れむとすれば最期の抵抗じじと鳴き手足うごくああ油蟬なり
夏草の繁り刈られて更地となるここに棲み暮らす鳥もゐにけり
8月21日(日)
蟬のこゑ乏しくなればここもまた寂しくなるか子ら寄りこずに
蟬の鳴く木々を探りて子らのこゑたのしげなるを老いわれよろこぶ
8月22日(月)
万菊丸、童子を名のる同行者よし野のさくらに三日とどまる
風羅坊は万菊丸に逢ひにけり笠の内ふたりの句を書きつけて
8月23日(火)
あけぼの杉の高き葉むらにすがりつく空蟬二つ成仏できず
われもまた成仏できぬ蟬のごとすがりつくものを求めさまよふ
8月24日(水)
トイレの個室にこもり掃除するTシャツも半パンツも汗みどろにて
ベランダにほうとしてゐる老いひとり隣に妻が空を見にくる
8月25日(木)
夏草をことごとく刈る空地には鳩が拠る、すずめが来る、ひよどりもゐる
双眼鏡に空地を覗けば鳩の動きくくくと鳴けるその態みゆる
8月26日(金)
「岸辺のアルバム」の日をおもひみむあの昼も小田急線に多摩川を越す
二十年ぶりの会ひなればしばらくは彼と同定できずとまどふ
うちとけて短歌、歌壇のあれこれを語りあふああこの愉しさよ
8月27日(土)
耳をすませば何か聞こえてくるものか風吹く街の夕暮れどきは
わが腕を這ひのぼりくるコバへあり思いつきり叩けばわが腕痛む
8月28日(日)
中庭の木を案内して欅のまへ来歴かたるわが寂しさを
百日紅の由来をむすこにさとしつつ幹滑りくる猿を想ひき
椿にはねつとりとしたねばりある八百比丘尼のいのちのやうな
8月29日(月)
花林糖がりりぼりぼりその甘さ妻の不服もしばしおさまる
パソコンに成瀬有の歌うつしつつああそこにゐる成瀬有が
8月30日(火)
蛇口より下垂る水はなほ温く蟬鳴くこゑもいまだに止まず
生よりも未生の時間のながきこと地中にひそむ蟬の幼虫
8月31日(水)
夏草をことごとく刈る空地には鳩が拠る、すずめが来る、ひよどりも飛ぶ
双眼鏡に覗けば鳩の動きみゆくくくと頸を前後して鳴く