朝方は涼しい。しかし直に暑くなる。暑い。
高木彬光『帝国の死角 第二部・神々の黄昏』を読み終える。自殺した鈴木大佐の抱えていた天皇の資産の行方を問うた続編である。鈴木の次男にあたる二郎を中心に話は巡る。八光教などという新興宗教の教団をもまきこんで破天荒な展開をするのだが、奇怪な話であり、興味深くもあるが……まあ、おもしろかった。
木に花咲く季節とはちがふ木の勢ひ夏のものなり。緑濃くして
苔の色も少しく濃くなり。夏の虫ねばつくやうに飛びめぐりをり
またまた造園業の手が入り全ての花は絶滅危惧種
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『孟子』尽心章句上206 孟子曰く、「堯・舜は之を性にするなり。・武は之を身にするなり。は之をるなり。久しくりて帰さずんば、んぞ其の、に非ざるを知らんや」
五覇は仁義を借りてゐるしかしそのまま返さずいればだれも知らず
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相馬御風編注『良寛和尚歌集』
飯乞ふとわれ来にけらし此の園の萩のさかりに逢ひにけるかも
【語義】「来にけらし」は「来たのらしい」または「来たのであろう」。
【大意】俺は今丁度うまくこの園の萩の花ざかりに逢った、これはまあ何という美しさだ、何といううれしいことだ、それにしても俺はここへ物を貰いに来たのらしいがなあ。
【評言】「われ来にけらし」は力強い表現である。「飯乞ふとわが来しかども」とか、「飯乞ふとわが来て見れば」とか、「飯乞ふとわが来し君が」など云ったのではなんの妙味もない。「来にけらし」だからいいのである。一切を忘れ果てて萩の花の美に吸い込まれた歓びを歌ったところに心を惹かれる。生活の糧を求めて来たことすらも打ち忘れてひたすら自然の美に見とれた、その瞬間の心を捉えたところに動かされる。
飯乞ふとわれこのやどに過ぎしかば萩のさかりに逢ひにけらしも
という歌もあるが、いずれにしても「けらし」は発せずに居られなかった言葉であったと見える。一が他をなおした結果であるとは思えない。自分にもその折の心もちはどちらがどうかわからなかったのであろう。そこが却って私達には面白く感じられる。即ち彼は前の歌のようにも感じたと同時に、更にまた「うまくこの家の萩の花盛りに逢い得たものだ、これはまあ何という仕合だ、これというのも俺がこうして物を貰おうとしてこの家の前を通りかかったから丁度うまく萩の花盛りに逢うことが出来たのかも知れないよ」こうも感じた。そしていずれの感じ方をも彼は捨て得ないでそのままいずれをも歌にした。それがまた一層私達には興味深く感じられるのである。
こんなことを云うとまたろくでもない理屈をこねるといって笑われるかも知れぬが、私はこの歌からこんな事まで考えさせられたのである。吾々生きている。この肉体の生命をつなごうとして働いている。しかも、その生きんとする欲望の為の働きの連続とも見るべき吾々の生活の途上において、吾々は多くの楽しみを与えられている。飢えて食う。食うはただ生命をつながん為めであろうが、しかもそれと同時に吾々は快い味を得ている。これは二重にありがたいことだ。だが、一体こうした吾々の生活はただ生きんとする欲望のみの然らしむるところかどうか。自分はただ生きんが為に生きているらしい。しかも自分には時としてその生きんが為の営みをすらも打ち忘れて美しさに見とれ、楽しさに驚かされることがある、これはまあどうしたことだ――そこまで良寛のこの歌の心を以て行こうというのではないが、私としては時にこの歌からこんなことまで考えさせられずには措かないだけは偽れない事実である。「飯乞ふとわれ来にけらし此の園の萩のさかりに逢ひにけるかも」。「飯乞ふとわれこのやどに過ぎしかば萩のさかりに逢ひにけらしも」。そのいずれがいずれとも定めがたいところに、この歌を詠んだ折の良寛その人の心持の貴さがある。