1月12日(月)

晴れましたね~伊豆稲取へ。

  いぢめとは工場の誰彼を憎むともやるせなきものはかなきものを

 *

  上下、左右さわさわさわと音立てて数千数万の赤蜻蛉飛ぶ

  とんぼ二つは比翼のすがた初路の霊しづまらず。糸塚建てむ

『孟子』離婁章句上68-2 詩に云ふ、『商の孫子、其の(かず)億のみならず。上帝既に命じて、侯れ周に服せしむ。(こ)れ周に服せしむ、天命は常(な)し。殷士(ふ)(びん)なるも、(けい)(くわん)(しやう)す』と。孔子曰く、『仁には衆を為す可からず』と。夫れ国君仁を好めば天下に敵無し。今や天下に敵無からんと欲して、而も仁を以てせず。是れ猶ほ熱を執りて而も以て濯せざるがごとし。詩に云ふ、『誰か能く熱を執るに、逝に以て濯せざらん』と。

  孔子いふ仁あるものには誰も敵せず熱ありて水浴びせざらむ

川本千栄『土屋文明の百首』

方を劃す黄なる甍の幾百ぞ一団の釉熔けて沸ぎらむとす 『韮靑集』

<紫禁城は方形(四角形)に区切られており、黄色い甍は幾百あるだろうか。炎暑に瓦の釉薬が一かたまりになって熔けて、煮えたぎろうとしている。>

昭和十九年夏、文明は中国へやって来た。陸軍省報道部として五か月の視察の旅だった。まず北京に着き、旧王宮の紫禁城を描いている。巨大な城に連なる黄色い甍。黄色は皇帝の色だ。瓦の表面の釉薬が熔けて煮えたぎる、は誇張した表現だが、炎天下の暑さが実感として伝わる。景を大きく力強く捉え、一首全体に躍動感がある。青い空に黄色い甍が映え、色彩も豪華で鮮やかだ。

垢づける面にかがやく目の光民族の聡明を少年に見る 『韮靑集』

<垢で汚れた顔に輝く目の光がある。私は民族の聡明さをこの少年に見る。>

中国大陸の風景は桁外れに大きかった。この時は汽車が川の増水で停車。減水を待つ間、文明は列車を降りて、辺りにいた少年と虫を捕って遊んだ。貧しいからか入浴の習慣が違うからか、少年の顔は垢で汚れている。けれどもその目は聡明さを湛えて輝いている。彼の民族は聡明だ。民族名は述べておらず、中国人全体を指すと考えられる。文明は相手をそのままに見ることにより、中国の人々に対する、当時の日本人の意識を超えたのだ。

1月11日(日)

朝は寒いし曇っている。晴れるらしいが。

絲山秋子『細長い場所』を読む。最初は分からなかったが、細長い場所は、この世とあの世の境界に当るらしい。登場人物のいづれもが透明で、平ったく中有に迷っている死者のごときだ。だから面白い。中有からなかなか昇天しない。だから小説になる。堪能した。

  墓所(ぼしよ)(ぢき)に近いものをお米も座る。柘榴の葉散る

  もともとは千五百石のお(やしき)女臈(じようろう)の初路刺繍に才あり

はんけち

  (こまや)かなかやつり草に縁どられその片端に赤蜻蛉二つ

『孟子』離婁章句上68 孟子曰く、「天下に道有れば、小徳は大徳に(えき)せされ、小賢は大賢に役せらる。天下に道無ければ、小は大に役せられ、弱は強に役せらる。斯の二つの者は天なり。天に順ふ者は存し、天に逆らふ物は亡ぶ。斉の景公曰く、『既に令すること能はず、又命を受けざるは、是れ物を絶つ為り』と。涕出でて呉に(めあ)はせり、今や小国、大国を師として、命を受くることを恥づ。是れ猶ほ弟子にして命を先師に受くるを恥づるがごときなり。(も)し之を恥ぢなば、文王を師とするに(し)くは莫し。

  文王を師とせば、大国は五年、小国は七年にして、必ず政を天下に為さん。

  周の文王を師として仁義の道を学ぶべしさすれば政を行ふ王者にならむ

川本千栄『土屋文明の百首』

いで行くに思ひ思ひのまどゐせり雨には妻と傘に入りたまへ 『山の間の霧』

<出で行く(出征して行く)のに際して思い思いに集まって語り合っていた。雨には妻と傘に入りたまえ。>

昭和十八年「送別二人」より。「まどゐ」は「円居、団居」、車座に座ることや、団欒を指す。練兵場に送別に行くと人々はあちこちで芝に座って語り合っている。雨が降って来た。見送りに来た妻と傘に入りなさい、と優しく語りかけている。この時期、若い知人が出征した、戦死した、という歌が非常に多い。文明は彼らをひとまとめにして歌うのではなく、彼らの名前を入れたり、誰か分かるようにして、一人一人を歌にしている。

とりよろふ常なる山並の間にして一朝の霧過ぎにきと言へ 『山の間の霧』

<立派な姿で常に変わらない山並みの間に、一朝の霧が過ぎて行ったと言いなさい。>

「とりよろふ」は万葉集、舒明天皇の一節「とりよろふ天の香久山」を踏まえる。「霧」は文明自身の比喩で、「霧が消えてしまうように文明が死んだ」と人には言ってくれ、と親しい人に言い残している。昭和十九年「遠く行かむとして」より。同年七月より文明は陸軍省報道部臨時嘱託として中国大陸の旅に出る。敗色濃い時期に戦地へ行くのだから死も覚悟しており、自分の一生は霧に似て儚かった、と遺言のように振り返っている。

1月10日(土)

今日も晴れ。

  身投げせる別嬪さんはいぢめられ死にしといふも同じ日なりき

  見た処三百ばかりの墓また墓。燈籠のもとには九十九の精霊

  年月が余りに遠く隔たれば秋の菊日和も夢も朧

『孟子』離婁章句上67 孟子曰く、「政を為すは難からず。罪を巨室に得ざれ。巨室の慕ふ所は、一国之を慕ふ。一国の慕ふ所は、天下之を慕ふ。故に沛然として徳教四海に溢る」

  孟子のことば、政はなべて徳を以て行へば沛然として四海に溢る

川本千栄『土屋文明の百首』

この母を母として来るところを疑ひき自然主義渡来の日の少年にして 『少安集』

<この母を本当には母として生れて来たのかを私は疑っていた。自然主義文学が外国から日本に来た頃の少年であったので。>

母の挽歌の一連から。文明の中学時代、自然主義文学が全盛で、物事を美化せず、現実のまま正確に写し取る態度に、文明も影響を受けた。そういう自分だから、人として優れていない母は、自分の母とは考えにくかった、と言う。同連作の歌でも「意地悪と卑下」が母から遺伝したとうたっている。ただ後に愛情に満ちた歌も作っており、文明の母への愛憎は、父への愛憎同様、複雑だ。

恙みなく帰るを待つと送る吾に否まず肯はず行きし君はも 『山の間の霧』

<無事に帰って来るのを待つと言って送りだす私に、否定も肯定もせず出征して行った君なのであった。>

太平洋戦争が始まっていた。戦争に行くのだから死ぬかもしれない。「はい、無事に帰って来ます」とは言えない。だが「いいえ、私はお国のために命を捧げます」と言うほど、この戦争の理念を信じているわけでもない。自分の任務を果たすために、その人は戦地へ戻って行った。知的で冷静な人物なのだ。結句の「はも」は古語で「~だったなあ」と回想し、惜しむ表現。この詠嘆からその人がもうこの世にいないのでは、と感じられる。

1月9日(金)

朝は寒いが、晴れる。けど寒い。

  はんけちの工場につとめる娘さんうららかな朝はかなくなりぬ

  家は焼け、お京の(はら)のお米には(あざ)ありいまも(うつす)り青し

  心中ではないが遠くなり近くそのなる人がまとふかその薄明かり

『孟子』離婁章句上66 孟子曰く、「人恒の言有り。皆曰く、『天下国家』と。天下の本は国に在り。国の本は家に在り。家の本は身に在り」

  一身を治めずにして「天下国家」を論ずることは論外のこと

川本千栄『土屋文明の百首』

野分だつ夕べとなりて吹く風はかへり咲く桜の枝吹きわたる 『少安集』

<秋の激しい野分(台風)の風が吹く夕方となり、吹く風は、季節外れに返り咲きをしている桜の枝を吹きわたる。>

秋風が吹き過ぎ、まもなく返り咲きの花も散ってしまうだろう。だが今はまだ散らずに枝にある。寒々しく寂しい光景だ。実際に見た景色を描いているが、荒い風に吹かれる花が、暗い時代の風に吹かれる名も無い人々に重なって見える。「野分だつ」と古語で重厚に始まり、四句の九音で、風に揺れる枝のように韻律もゆらゆらと揺れる。結句七音で定型通り締めている。

歌よみが幇間の如く成る場合場合を思ひみながらしばらく休む 『少安集』

<歌人が、幇間のようになる幾つかの場合を思い浮かべながら、続けていた選歌をしばらく休憩する。>

「幇間」は「太鼓持ち」で権力者に追従する者の喩えに使われる。今読むと「幇間」の語や「場合場合」と重ねた韻律が面白いが、言論の自由の無いこの時代の歌としてはやや危険な面がある。権力者におもねる歌を作る歌人を批判するだけではない。戦争協力の歌を作る人の中には、心から応援しているのでは無く、ご機嫌を取っているだけの者もいるのだ、と政府や軍のような権力者側に示唆することにもなるからだ。

1月8日(木)

寒いけれど、今日も晴れ。

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫 増補新版』を読む。中沢の折口愛が伝わる。折口にもっと近い所に居て、私には十分には持てなかった折口愛。それが溢れている。特に戦後の神道論の解析、主張が、巧く捉えられていておもしろい。折口は本気だったのだと改めて思う。それが今の神道界には、何一つ実現していないし、反対方向へ動いている。折口論としてよきものである。

  寂しき美しきをみなは花の雲から下りて宙にただよふ

  二十(はたち)の日に死の(ふち)に辻町は(こら)へたるにその夜千ヶ淵に沈みし女

  卑怯未練の若き日恥ぢて辻町糸七けふ燈籠寺に詣で来にけり

『孟子』離婁章句上65 孟子曰く、人を愛して親しまずんば、其の仁に反れ。人を治めて治まらずんば、其の智に反れ。人を礼して答へずんば、其の敬に反れ。行うて得ざる者有れば、皆(これ)を己に反求す。其の身正しければ天下之に帰す。詩に云ふ、『永く(ここ)に命に配し、自ら多福を求む』と。

  詩経に云ふ「永くここに従ひて行動し多福を求む」

川本千栄『土屋文明の百首』

人すてて去りたる炎守りつつ時ありき潮の高くなるまで 『少安集』

<人が捨てて去って行った炎を守りながらしばらくの時間があった、潮の高くなるまで。>

「十二月某日」より。この歌の状況は連作から、次のようなものと分かる。まず海辺の岩の間に誰かが小さな焚き火をしていたが、その人が火を捨てて去った。見ていた自分は近づき、炎を守ってしばらく時を過ごした。その後、潮が高くなっていった、というものだ。実際の風景だろう。冬の海の、暗く荒涼とした浜辺だ。ただの風景というだけでなく、人が捨てた小さな大切なものを、自分が拾って守っていたことの譬喩とも読める。

(そうだろうか。連作といえど一首の完成度がもっと問われていいのではないか。)

もろ人の戦ふ時に戦はず如何にか待たむ新しき世を 『少安集』

<全ての人が戦う時に戦わず、如何に(どのようにして)待つのだろうか、新しい世の中を>    昭和十三年の歌。前年、盧溝橋事件が起こり、日本と中国は日中戦争と呼ばれる戦争に突入した。この歌は、戦わずに待つことはできない、戦うべきだと思いつつ、戦えないならどう待つのかと自問している。戦争の大義に乗り切れない者の逡巡だ。この時期、文明は、短歌に打ち込むのと同様、万葉関係の研究に打ち込んでいる。万葉集の研究こそが自分のするべき戦いだ、という思いが一首の背後にあったのではないか。

1月7日(水)

曇り後、晴れるらしい。

  景色もいいが容子がいいお米に見惚れる提灯屋なり

  お京の墓へ参りし後にもうひとつ参るところ。辻野にはある

  辻野とは心中未遂にはあらざれど同じ時刻に水に入りたり

『孟子』離婁章句上64 孟子曰く、「三代の天下を得るや仁を以てし、其の天下を失ふや不仁を以てす。国の廃興存亡する所以の者も、亦然り。天子不仁なれば、四海を保たず。諸侯不仁なれば、社稷を保たず。卿大夫不仁なれば、宗廟を保たず。士庶人不仁なれば、四体を保たず。今、死亡を悪んで、而も不仁を楽しむは、是れ猶ほ酔ふことを悪んで、而も酒を強ふるがごとし」

  夏・殷・周の三代の始祖よく仁を施せり天下失ふは末帝不仁

川本千栄『土屋文明の百首』

降る雪を鋼条をもて守りたり清しとを見むただに見てすぎなむ吾等は 『六月風』

<降っている雪を鋼条(鉄条網)で囲んで守っていた。それをただ清しいとだけ見よう、ただ見て通り過ぎよう、われら市民は。>

昭和十二年の作。前年に起こった二・二六事件の歌。陸軍の青年将校たちが雪の降る二月二十六日未明、クーデターを起こし、政府の重臣を殺害し、首都の中心部を占拠した。事件の様子を清々しい、清らかと歌うが、それが逆説的に不安や怒りを表わす。もう、一市民にはうかつに物が言えない時代だった。鉄条網に隔てられた向こうを、ただ見て通り過ぎるしかないのだ。

夕光うするる山に手をとりてつつじの花も見えなくなりぬ 『六月風』

<夕方の光が薄れる山で妻の手を取っていた。暗くなってきて周囲のつつじの花も見えなくなった。>

つつじの花が咲く五月、妻を伴って旅行に行った時の歌。夕焼けの光が次第に薄れていくという山という大きな風景と、つつじの咲く花原という小さな風景。その中で手を取って立っている二人。文明四十六歳、妻テル子四十八歳、現在の感覚とは違って、老いを意識する年齢だ。薄れていく夕光に、老いていく自分と妻が重なる。若き日の相聞歌に見られた抒情性を、文明がまだ内に秘めていたことが分かる歌だ。

1月6日(火)

晴れ。寒い。

  (なやま)しく優しきお米に提灯の黒塗りの柄をぷいと差し出す

  十町三方金沢城下の往来に行く人来る人皆見ゆるかな

  就中(なかんづく)、公孫樹は黄にて紅樹、青林、見渡す森は(もみ)(ぢ)を含む

『孟子』離婁章句上63 孟子曰く、「規矩は方員の至りなり。聖人は人倫の至りなり。

君為らんと欲せば君の道を尽し、臣為らんと欲せば臣の道を尽す。二者皆堯舜に法るのみ。舜の堯に事ふる所以を以て君に事へざるは、其の君を敬せざる者なり。堯の民を治むる所以を以て民を治めざるは、其の民に賊する者なり。孔子曰く、『道は二つ、仁と不仁とのみ』と。其の民を暴すること甚しければ、則ち身弑せられ国亡ぶ。甚しからざれば、則ち身危ふく国削らる。之を名づけて幽厲(いうれい)と曰ふ。孝子慈孫と雖も、百世改むること能はざるなり。詩に云ふ、『殷鑒(いんかん)遠からず、(か)(こう)の世に在り』と。此の謂なり」

  孔子曰く道は二つ、仁と不仁のみこれ守らねば国は滅びぬ

川本千栄『土屋文明の百首』

大陸主義民族主義みな語調よかりき呆然として昨夜は聞きたり 『六月風』

<大陸主義も民族主義もみな語調が良かった。人がそれを語っているのを、私はただ呆然として昨夜は聞いたのだった。>

昭和十一年の作。演説か、あるいは知人の話を聞かされたのだろう。日本は、「満州国」を「五族協和」などのスローガンを掲げて独立させた後、益々深く大陸を侵略しようとしていた。その人は時局に乗り、熱く威勢良く語っていたのだろう。「語調よかりき」には「語調はいいが、中身が悪い」という思いが込められる。「呆然として」も同意できない気持ちを示している。

幾度も幾度も催促をせしキング原稿料一首一円送り来ぬ 『六月風』

<幾度も幾度も催促を繰り返した結果、雑誌「キング」は原稿料として短歌一首につき一円を送って来た。>

雑誌「キング」は大正末に創刊され、昭和に入って百万部を超える売り上げを誇った人気雑誌だ。一首一円が高いか安いか現代からは推測しにくいが、この当時、大卒初任給が九十円ということだから、高くはないが、不当なまでに安い訳でもないのだろう。ただ何度も催促しないと原稿料が支払われないのは、作家にとって屈辱的なことだ。自分と短歌という文学が軽く見られた怒りが、「幾度も幾度も」の繰り返しに表れている。