1月26日(月)

今日も寒い。晴れだが。

  朝・昼・晩すがたを変へて変幻自在あけぼの杉の正体見えず

  杉の木を下から仰げば冬の空透明にして飛ぶ鳥も見ず

  日中はただの冬の木、夜となれば闇の中なりすがた隠す

『孟子』離婁章句上80 孟子曰く、「(つか)ふること(いづ)れか大なりと為す。親に事ふるを大なりと為す。守ること孰れか大なりと為す。身を守るを大なりと為す。其の身を失はずして、能く其の親に事ふる者は、吾之を聞けり。其の身を失ひて、能く其の親に事ふる者は、吾未だ之を聞かざるなり。孰れか事ふると為さざらん。親に事ふるは、事ふるの本なり。孰れか守ると為さざらん。身を守るは、守の本なり。

  親に仕へるが根本であり自らの正しさを守るが根本なり

川本千栄『土屋文明の百首』

一ついのち億のいのちに代るとも涙はながる我も親なれば 『青南集』

<その一人の命が億の人の命の身代わりになるとしても、その死への涙は流れる、私も親であるから。>

昭和三十五年七月の歌。同年五月、安保条約の成立に際し、何十万もの人々が国会議事堂を取り囲んだ。また、六月には学生のデモ隊と機動隊が衝突し、東大生樺美智子が死亡した。一首の背景にはこの事件がある。「億のいのち」は日本人全体の命を表す。親であればその億の命より、自分の子一人の命が惜しい。戦前の「まをとめや」や戦中の出征者に寄せる思いに繋がる気持ちだ。再びの戦争体制が人々に強く危惧された時期の歌である。

青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ 『青南集』

<青く広がる裾野の上に榛名連山を、永久の幻に思い浮かべながらも、故郷を出て帰らないのは私だけではない。>

明治時代、立身出世や自分の才覚による成功を夢見て故郷を去った人々の一人として、文明も東京に出て、生涯故郷に帰り住むことは無かった。彼にとって、青々と連なる榛名山系は永遠のまぼろしとして思い浮かべるものであり、故郷の象徴だった。歌碑嫌いの文明だったが、この歌を刻んだ生前唯一認めた歌碑が、出身地にある群馬県立土屋文明記念文学館の前庭に建てられている。

1月25日(日)

寒い。北国では盛んな雪らしいが、こちらは快晴。

  妻の体液とわが体液がまじり合ふ湯舟に浸かり淫蕩ならむ

  陶然と湯舟に浸かり陶然ともの考ふる女身について

  浸かりし湯を湯舟にこぼしわれが入る全裸のわれの体積分を

『孟子』離婁章句上79 公孫丑曰く、「君子の子を教へざるは何ぞや」と。孟子曰く、

「勢ひ行はれざればなり。教ふる者は必ず正を以てす。正を以てして行はれざれば、之に継ぐに怒りを以てすれば、則ち反って(そこな)ふ。『夫子我に教ふるに正を以てするも、夫子未だ正に出でざるなり』と。則ち是れ父子相夷ふなり。父子相夷へば、則ち悪し。古は子を易へて之を教ふ。父子の間は善を責めず。善を責むれば則ち離る。離るれば則ち不祥(これ)より大なるは莫し」と。

  父と子の善をそこなふを良しとせずされば子供を取り替へて教ふ

川本千栄『土屋文明の百首』

月にゆく船の来らば君等乗れ我は地上に年をかぞへむ 『青南集』

<もし月に行く船が来たら君等が乗れ。私は地上で老いていく自分の年齢を数えいこう。>

「来らば」は「きたらば」。昭和三十三年「新年の歌」より。第二次世界大戦後の冷戦中、米ソは宇宙開発競争を繰り広げた。この歌の前年十月、ソビエト連邦(現ロシア)による人類初の人工衛星スプートニク一号が打ち上げられた。文明は早速それを素材にしている。アメリカのアポロ十一号月面着陸より十年以上前のことだ。「君等」に比べて老いた「我」だが、まだまだ好奇心に満ちている。会話体を模した軽みの歌だ。

旗を立て愚かに道に伏すといふ若くあらば我も或は行かむ 『青南集』

<旗を立て愚かに道に伏せるのだと言う。もし若かったら私も或いは行くかもしれない。>    昭和三十五年「時のうつり」より。背景に六十年安保闘争がある。この年の一月、日米安全保障条約改定に向かう首相らの渡米を、反対を叫ぶ学生たちは、旗を立て道に身を横たえて阻止しようとした。結局は警察隊に排除されるそれらの行為を、文明は「愚かに」と言う。権力に逆らうことの困難さを経験して来た、理性の人の判断だ。しかし、同時に彼の中には、そうした行動へ駆り立てられるような情熱もあったのだ。

1月24日(土)

今日も晴れています。でも、寒い。

梨木香歩さんの『家守綺譚』に継ぐ『冬虫夏草』を読む。前作に増して心地よいものでした。愛知川をさかのぼり鈴鹿山系深く入り込む綿貫征四郎の旅がおもしろい。そこに出て来る地名の数々、相谷、佐目、九居瀬、萱尾、蛭谷、政所、君ヶ畑、などなど。そしてイワナや河童の化身。どうもあの世とこの世は通じているらしい。滝を隔てた犬ゴローとの再会。なんとも言えずおもしろい。終わりたくないという気持が昂じて読む速度を遅くしたが、とうとう読み終えてしまった。近藤よう子さんに是非ともマンガ版を作ってほしい。『家守綺譚』と合わせて読んでみたい。

  中庭のあけぼの杉も裸木に冬の一日枝のみ踊る

  朝の陽と夕べの光に照らされてあけぼの杉は荘厳されたり

  椋鳥が拠るにももはや頼りなく裸の樹となるあけぼの杉は

『孟子』離婁章句上78 淳于髠曰く、「男女授受するに親しくせざるは礼か」と。孟子曰く、「礼なり」と。曰く、「嫂溺るれば、則ち之を援くるに手を以てするか」と。曰く、「嫂溺るるに援けざるは、是れ豺狼なり。男女授受するに親しくせざるは、礼なり。嫂溺れ、之を援くるに手を以てする者は権なり」と。曰く、「天下溺る。夫子の援けざるは、何ぞや」と。曰く、「天下溺るれば、之を援くるに道を以てす。嫂溺るれば、之を援くるに手を以てす。子 手にて天下を援けんと欲するか」と。

  万が一の場合には手を以て援け、天下を救ふには正しい道こそ

川本千栄『土屋文明の百首』

白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか 『青南集』

<人間という白く脆弱な存在が原水爆で自滅したならば、その後は幾億もの蝸牛が這いゆくのだろうか。>

「蝸牛」はかたつむり。昭和二十九年三月アメリカによるビキニ環礁での水爆実験により、漁船第五福竜丸が被爆、乗組員一名が死亡。人々を放射線雨の恐怖が襲った。

「人間の恐るる雨の中にして見る見る殖えゆく蝸牛幾百」と事実に沿って歌い、次にこの歌で戦慄的な幻想に飛ぶ。数年後、レイチェル・カーソンは『沈黙の春』で、農薬汚染により他生物が死滅した地に、蝸牛だけが這い回る様子を記した。この二つの地獄絵は相似形だ。

ああ楽し老の見世物のごとくにて若き君等の写真器の前 『青南集』

<ああ楽しいなあ。私は老いの見世物のようであり、若い君たちの写真機の前にいる。>

昭和三十一年「彦山アララギ歌会」より。文明は東京に帰住した翌二十七年、「アララギ」の編集発行人を後進に引き継いだが選者は続け、各地の歌会に積極的に出席していた。歌会の休憩時間、人々はこの高名な老歌人を撮ろうと、当時まだあまり普及していなかったカメラを構える。文明は愛想良く記念撮影に応じながら、内心では、見世物じゃないぞ、写真より歌に真剣になれ、と舌打ちしている。「ああ楽し」はもちろん皮肉だ。

1月23日(金)

寒いのだが快晴。雲一つない。

  路の上に落ちたる黒き手袋が冬の激しき風に立ちあがる

  まるで淑女のごとくに揺れる黒手袋少しづつ風に(かたち)を変へて

  手袋が落ちてゐるだけで楽しきよ人それぞれに夢を紡ぐ

『孟子』離婁章句上77 孟子曰く、「恭者は人を侮らず。倹者は人より奪はず。人を侮り奪ふの君は、惟順はざらんことを恐る。悪んぞ恭倹と為すを得ん。恭倹は、豈声音笑貌を以て為す可けや」

  恭倹と心の問題にてうわべのことばつきや笑顔では決められず

川本千栄『土屋文明の百首』

戦ひて敗れて飢ゑて苦しみて凌ぎて待ちし日と言はむかも 『自流泉』

<戦って敗れて飢えて苦しんでそれでも何とか凌いで待った日と言うだろうか。>

昭和二十六年「講和を迎へて」より。同年九月八日に締結されたサンフランシスコ平和条約によって、日本は独立国家として主権を認められた。歴史の大きな転換点であり、喜ぶ声も多かった。この歌は、「……て」をリズム良く五度繰り返しながらも、人々はこう言うのだろうか、言うのだろうな、と醒めている。この条約の不備や同時に結ばれた日米安保条約などを考え、もたらされる未来が明るくないことを見通していたのだ。

なほ一人の土屋が山に残り居て落葉の坂を行くかともまどふ 『青南集』

<今もなおもう一人の土屋文明が川戸の山に残っていて、落葉の坂を歩いて行くのではないかとも惑う。>

昭和二十六年末、六十一歳の文明は疎開先の川戸を去って、東京の青山南町に帰住した。約六年間の疎開生活は他の疎開者に比べてもかなり長いもので、渓谷の風景や、開墾した畑とそこへ行き来した山道などは、それなりに愛着のあるものだっただろう。もう一人の自分がまだ前の場所に居るかのような錯覚は、引っ越しや職場を変わった時に体感されるものだが、「土屋」という客観化により、平行(パラレル)世界(ワールド)を見ているかに表現される。

1月22日(木)

寒い、寒い。でも快晴。

  あけぼの杉がしっかり冬のすがた見せ朝夕太陽に荘厳したり

  けやきの葉もすっかり落ちて無惨なる幹をさらしてやるせなきなり

  相変はらず椿は奥の深くして鳥ども隠す見つけ難し

『孟子』離婁章句上76 孟子曰く、「人に存する者は、眸子より良きは莫し。眸子は其の悪を掩ふこと能はず。胸中正しければ、則ち眸子(あきら)かなり。胸中正しからざれば、則ち眸子(くら)し。其の言を聴きて、其の眸子を観れば、人焉んぞ(かく)さんや」

  人の言をよく聴きその眸子を観察すれば心の中を隠すことできず

川本千栄『土屋文明の百首』

選び捨てし歌の怨みの積り来てかく吾が足の痛むにやあらむ 『自流泉』

<選歌して捨ててしまった歌の怨みが積もり積もってこのように私の足が痛むのではないか。>

文明が「アララギ」で選歌していた歌の数は非常に多かった。また、文明の選歌は厳選で知られていた。毎月五首の詠草を送っても一首も載らないことも珍しいことではなかった。発奮する者も、不満を持つ者もいただろう。しかし、作者が渾身の力を込めて作った歌でも取れないものは取れないのだ。長時間の執筆や選歌、また年齢のせいで足が痛むと分かっているが、恨まれているのだろうな、という自覚もあるのだ。

李の木の跡に若木を植ゑつげり花に降りかかる今日の日の雨 『自流泉』

<老木となって枯れてしまった李の木の跡に、人は同じ李の若い木を植え継いだのだ。その花に降りかかる今日の日の雨よ。>

文明の故郷上郊村は、疎開地川戸から榛名山を隔てて反対側の麓にあった。ある春の日、彼は故郷を訪れた。四十年以上の歳月が経っていた。祖父や父など良い思い出ばかりの故郷ではないが、老いた彼を覚えていて振り返る人も無い。記憶にあった李の木の跡には若い木が花をつけている。時代が新しくなったことを象徴するかのようだ。花に降る雨の描写が繊細で感傷を誘う。

1月21日(水)

今日は一日曇りらしい。寒い。

  女ものの黒き手袋の左のみ路上にありて寒き冬風

  女性の手が動きだすやうに人の手の右手と握手す冬のさ中に

  誰ひとり拾ほうとせずに冬風に吹かれて立ちあがる摩訶不思議なり

『孟子』離婁章句上75 孟子曰く、「求や季氏の宰と為り、能く其の徳を改めしむる無く、而も粟を賦すること他日に倍せり。孔子曰く、『求は我が徒に非ざるなり。小子鼓を鳴らして之を攻めて可なり』と。此に由りて之を観れば、君仁政を行はずして之を富ますは、皆孔子に棄てらるる者なり。況や之が為に強戦し、地を争ひて以て戦ひ、人を殺して野に盈て、城を争ひて以て戦ひ、人を殺して城に盈つるに於てをや。此れ所謂土地を率ゐて人の肉を食ましむるなり。罪、死に容れず。故に善く戦ふ者は上刑に服し、諸侯を連ぬる者は之に次ぎ、草萊を辟き、土地に任ずる者は、之に次ぐ」

  冉求はだめだと孔子言ふ仁政・道徳こそ努むべきもの

川本千栄『土屋文明の百首』

初々しく立ち居するハル子さんに会ひましたよ佐保の山べの未亡人寄宿舎 『山下水』

<初々しく日常の動作をするハル子さんに会いましたよ、奈良の佐保の山辺の未亡人寄宿舎で。>

知人への私心の形を取り、会話体で優しく話しかけている。六・十一・六・七・九の字余りの韻律が、肉声を聞くかのように感じられる。当時のこの口語的発想は他の歌人に大きな影響を与えた。治子さんは、知人の戦死した息子のまだ若い妻。戦争未亡人のための教員養成所で勉強中だった。佐保は春の女神・佐保姫の地。不幸を乗り超え再出発を目指すハル子さんと、佐保姫の姿が重なり、若々しく清新な歌となっている。

時代ことなる父と子なれば枯山に越下ろし向ふ一つ山脈に 『山下水』

<生きる時代の異なる父と子であれば冬枯れの山に腰を下ろし一つの山脈に顔を向ける。>

千葉の大学に通う息子夏実が川戸を訪問した。文明と二人、裏山に登って腰を下ろし、山脈を見ながら語り合っている。父は戦前戦中の軍国主義の思想統制下に、身の安全を願い、忍ぶ生を選んで来た。息子は戦後の新しい時代の思想を知り、己一人にとどまらない生き方を選ぼうとしている。父は時代の限界の中で生きてきたが、子の価値観を、理解できなくても肯定しようとしている。二人の視線は遠い山脈へと向けられている。

1月20日(火)

朝から晴れているが、寒くなるらしい。

  ビールから日本酒に替へしどろもどろ呟きはつひに歌声にならず

  浅草の寺の梵鐘が聞こゆれば二〇二六年の年明けむとす

『孟子』離婁章句上74 孟子曰く、「伯夷は紂を辟けて、北海の(ほとり)に居る。文王作興すと聞き、曰く、『蓋ぞ帰せざるや。吾聞く、西伯は善く老を養ふ者まり』と。大公は紂を辟けて、東海の浜に居る。文王作興すと聞き、曰く、『蓋ぞ帰せざるや。吾聞く、西伯は善く老を養ふ者なり』と。二老者は天下の大老なり。而して之に帰す。是れ天下の父之に帰するなり。天下の父之に帰せば、其の子焉にか往かむ。諸侯にして文王の政を行ふ者有らば、七年の内必ず政を天下に為さん」

  王政を行ふ文王の世になれば伯夷・太公文王に帰す

川本千栄『土屋文明の百首』

亡ぶとも湧く水清き国を信じ帰り来にしと静かに言いヘり 『山下水』

<戦争に敗れ亡んだけれど清い水が湧くこの国を信じて帰って来たのです。とその人は静かに言った。>

戦争中、多くの若い歌の仲間が出征して行った。その一人が帰国し川戸にいる文明を訪ねて来た。直前の歌、「遠き島に日本の水を恋ひにきと来りて直に頬ぬらし飲む」と共に味わいたい。彼は訪ねて来るなり湧き水を飲んだ。戦地の島で飢え渇きながら日本の水を恋しく思っていた、と。自然は確かにまだ美しいが、今のこの国は果たしてその思いに応えるものだろうか。迎える側は、互いの傷の深さの違いに、悲しむことしかできない。

評論はわけのわからぬを常として我がことあればそのめぐりだけ読む 『山下水』

<評論は訳の分からないものだというのを通常のこととして、私のことが書いてあればその辺りだけを読む。>

皮肉に満ちた歌。人を食ったふてぶてしい態度だが、自分のことだけは読むというところがちょっととぼけてもいる。敗戦の翌年、昭和二十一年には日本文化、特に短歌と俳句を攻撃する論が起こっており、文明はその論に強い憤りを感じていた。この前後には自分がいかに日本語と短歌を大切にしているかという歌が並ぶ。気に入らない論者を舌鋒鋭く攻撃する歌もある。文明の後半生の毒舌とユーモアはこの頃から顕在化してゆく。