2月2日(月)

今日も寒い。そして明けるのが遅い。

無茶苦茶な事件が多いそんなにも人を殺して楽しいか

  人を殺す、手軽に殺す事件多く毎日毎日ニュースに流る

  人を殺してはいけないと習はぬかかくも殺人者多し

『孟子』離婁章句上86 孟子 楽正子に謂ひて曰く、「子の子敖に従つて来るは、徒に舗啜(ほせつ)するなり。我(おも)はざりき、子古の道を学んで、而も舗啜せんとは」と。

古の道を学びし楽正子、まさかお前が舗啜(ほせつ)せんとは

川本千栄『土屋文明の百首』

終りなき時に入らむに束の間の後前ありや有りてかなしむ 『青南後集』

<死後という終りの無い時に入る際の、ほんの束の間の順序の後先に大きな違いがあるのだろうか。それは有ったし、私はそれをかなしむのだ。>

昭和五十七年「束の間の前後」より。妻テル子が急逝した。九十三歳であった。死後の時間は永遠だから、それに至るまでの時間の長短は微差のようなものだ。しかし残された者にはその微差が辛い。これから死ぬまで、束の間であっても、悲しみを抱かえて生きるしかないのだ。約七十年間人生を共にした妻に捧げる、嘆きに満ちた挽歌であると同時に愛を込めた相聞歌である。

木むら若葉花の紅かはるなし亡きを言ふ勿れ春はとこしへ 『青南後集』

<木々の若葉も花の赤さも何も変わることはない。亡き人のことを言ってはいけない。春は永遠なのだ。>

昭和五十八年「亡き者を心に」より。毎年変わらず春は訪れ、若葉の縁は芽吹き、花は紅く咲く。人間の命のみが短く過ぎて戻らない。庭の花々を見ながら前年の春に亡くなった妻を思っている。四句の「亡きを言ふ勿れ」は八音で、自分に対してゆっくり語りかけている。「亡き」の語の背後には、息子や、多くの知人の姿も感じられる。五句は、今のこの春の美しさが永遠に続いてほしい、続くように思える、との強い気持ちを表す。

2026年2月1日(日)

晴れ。寒い。

  小さなる月の明かりに照らされて波濤見えたり重なりにつつ

朝の太陽

  太陽の朝のひかりが映しだす広き海原きらきらとして

  浜辺には濡れて黒き石と乾く石ごろごろとして浪に対峙す

  一夜さを風吹き荒れて、吹き続く。伊豆半島も風に揺れたり

『孟子』離婁章句上85 楽正子、子敖に従ひ斉に之く。楽正子、孟子に見ゆ。孟子曰く、「子も亦来りて我を見るか」と。曰く、「先生何為れぞ此の言を出すや」と。曰く、「子来ること幾日ぞ」と。曰く、「昔者(せきしや)なり」と。曰く、「昔者ならば、則ち我が此の言を出だすも、亦宜ならずや」と。曰く、「舎館未だ定まらざればなり」と。曰く、「子之を聞けりや。舎館定まりて、然る後に長者に見ゆることを求むるか」と。曰く、「(こく)罪有り」と。

川本千栄『土屋文明の百首』

読み下さる読み下さらぬかたじけな買ひ下さるを第一として 『青南後集』

<読んで下さっても読んでくださなくてもありがたい。買って下さるのを第一としているので。>

昭和五十一年「万葉集私注新訂版」より。文明は一生の仕事として『万葉集私注』に取り組んで来た。いったん完結した後も補正稿を書き続け再刊した。この時も新釈を加えての新訂版だった。いくら補正を重ねても完璧ということはないとも歌っている。人生におけるきわめて重要で真面目な場面のはずだが、この歌はユーモアを込めて、自著の出版は文学だけではなく生活の問題でもある、と本音を漏らしている。

十といふところに段のある如き錯覚持ちて九十一となる 『青南後集』

<年齢の何十歳というところに段のあるような錯覚を持って九十一歳となる。>

昭和五十六年「九十一新年」より。十代二十代というように十年ごとに年齢に節目があり、そこに段があるような感覚を持っているが、それは錯覚だと歌う。人は十歳ごとに規則正しく成長や老化するわけではなく、特に老化は個人差がある。ある日突然、昨日までのようには心身が動かないことも起こり得る。九十代のこれからはいつそんな日が訪れるか分からない。十年刻みではなく、九十、九十一と一年刻みで考える年代なのだ。

1月31日(土)

夜明けが遅い。ゴミ捨ても遅くなる。

  矢柄(やがら)魴鮄(ほうばう)を刺身にてそれぞれの味舌にころがす

  地の酒を一盃、二盃。酔ひ気味の妻とかはせばわれも嬉しき

  金目鯛の煮物をくづし身と汁をかけて食ふ(めし)ただただに美味

『孟子』離婁章句上84 孟子曰く、「人の(うれひ)は、好んで人の師と為るに在り」

  人がだめなのは好き好んで人の師になろうとすること

川本千栄『土屋文明の百首』

二人三人の友とありし日少しはしやぎ少女は声に我を呼びにき 『青南後集』

<二、三人の友と一緒にいた日、少しはしゃいで、少女は声に出して私の名を呼んだのだった。>

昭和五十年「少女と姫萩」より。八十四歳の文明は姫萩を見て、七十数年前、この花の咲く道で同級生の少女から名を呼ばれたことを思い出す。教室で隣に座る少女だった。二人は自分の気持ちが何なのか分かっていなかったが、「声に」によってそれを意識する。少女と一緒にいた女の子たちは、文明と少女の仲を噂し始めた。二人の淡い思いは、十四歳での少女の病死によって終わる。少女は、後に妻となるテル子の二歳下の妹だった。

思ひ出よ夏上弦の月の光病みあとの汝をかにかくつれて 『青南後集』

<思い出しておくれ、あの夏の上弦の月の光を。病み上がりのお前をともかく連れて行った日を。>

「汝」は「なれ」。昭和五十年「白雲一日」より。前年、長男の夏実が五十一歳で病没した。あの夏の日、午後の空に浮かんだ上弦の月を思い出しておくれ、と亡きわが子に呼びかけている。大病後の子を連れて遊びに出かけた時の記憶だ。貧しく、質素な食事しかさせてやれなかったから、幼少期の虚弱な体質が残ったのかという悔恨も、同じ連作で歌にしている。白く薄い昼の月が、ひ弱だった幼い頃の息子に重なって思われるのだ。

1月30日(金)

晴れているが、ひどく寒い。

  大島をはじめ利島(としま)新島(にひじま)も、晴るれば遠く三宅島まで

  油槽(タン)(カー)や貨物船も遠くゆつくりと右手に動く下田を越えて

  東に面する宿の七階の湯に沈む。昼の明るき伊豆の海なり

『孟子』離婁章句上83 孟子曰く、「人の其の言を易くするは、責め無きのみ」

  人がまた軽々しくもものをいふ責任感が乏しきゑなり

川本千栄『土屋文明の百首』

作るほど下手になるといふ理論自ら明かす如く作り来たりぬ 『続々青南集』

<歌は作るほど上手くなるのでなく、下手になるという理論を、自ら証明するように作ってきた。>

「来りぬ」は「きたりぬ」。昭和四十八年八十二歳の作。長く続けると、歌を作る知識や技術は増えても、新鮮な感覚や、素材に向かう熱量は失われてゆく。自己模倣に陥る危険性も増える。老歌人の卑下と取られかねない内容を臆さずに口にする。どんなに劣化しようが、それでも歌を作らずにはいられない業のような何かが、歌を作る人間にはある。その何かに駆られて歌って来た自覚が底にあり、卑下や謙遜とは違う歌になっている。

東西南北中高層ビルにかこまれてすぐに分るよぼろ屋文明 『青南後集』

<東西南北を中高層ビルに囲まれたぼろ家だから、すぐに分かるよ。ぼろ屋文明より。>

昭和四十九年「老の家居」より。一家が疎開先から帰った昭和二十六年、あたりはまだ戦後の荒廃が残っていたが、それから二十年以上経ち、東京青山の風景は一変した。この歌は、家への道案内を記したはがき歌風の文体で、「分るよ」と会話体で気さくに話しかけ、姓「土屋」を「ぼろ屋」に変えて署名のように付け加える。文明八十三歳、歌壇の重鎮の位置に安住せず、軽みとユーモアを武器に飄々と新しい試みを続けていた。

1月29日(木)

晴れだが……

稲取

  稲取もご多分に洩れず坂の町。駅より海へ傾斜したりき

  駅前から送迎バスにおよそ十分けふの宿りの温泉宿へ

  部屋に入れば窓いつぱいに海が見ゆ。その明るさに妻と驚く

『孟子』離婁章句上82 孟子曰く、「(おもんぱか)らざるの(ほまれ)有り。(まつた)きを求むるの(そしり)有り」

  予期せぬ名誉を得ることあり全きにかえつて毀りあることもある

川本千栄『土屋文明の百首』

議員さんを人気商売と言ふなかれ人気なくなればダッコチャンも売れず 『続々青南集』

<議員さんを人気商売などと言ってはいけない。人気が無くなれば、あの爆発的に売れたダッコちゃん人形だって売れないのだ。>

昭和四十五年七十九歳の「老耄年を迎ふ」より。ダッコちゃんは昭和三十五年の大ヒット玩具で、腕などに抱きつかせる人形だ。ブームは去っていたが、まだ人々の記憶には鮮明だった。この歌は上句と下句に転換があるのがおもしろい。上句で政治家を庇ったかと思えば、下句で人気が無くなればダッコちゃん同様に用済みだよとほのめかす。老耄と自称するが毒舌と諧謔は健在だ。

橙の年を越えたる一つ実を囲む青実も色づきそめつ 『続々青南集』

<橙の、年を越えて色づいた一つの実を囲む。今年の青い実たちも色づき始めた。>    昭和四十八年「窓のそと窓のうち」より。橙は数年分の実が同時に枝に生るため「代々」に繋がり縁起がいい。この木は文明の部屋のすぐ前に植えられ、しばらく実らなかった。この頃から実り始めた。毎日窓から眺めるお気に入りで、たちばなとも呼んでいた。「亡き人は見ゆることなきことわりも散るたちばなの花の下にて」(青南後集)「ただ一つ下れる去年の橙あり木の実は孤独といふこともなく」(同)など次の歌集にも作品が多い。

1月28日(水)

寒い、寒い。けど晴れ。

  朝がらす一声二声鳴き過ぐるいつものところに鳩むれ見えず

  朝がらす一羽が鳴けば二羽、三羽続けば拠らず鳩どもならむ

  鳩どもがいたずらものと思ひたりところかまはず糞を落とす

『孟子』離婁章句上81 孟子曰く、「人は与に(せ)むるに足らざるなり。政は関するに足らざるなり。惟大人のみ能く君の心の非を格すことを為す。君仁なれば仁ならざること莫く、君義なれば義ならざること莫く、君正しければ正からざること莫し。一たび君を正しくして、而して国定まる」

  いったん君を正しうすれば而して国は定まるものぞ

川本千栄『土屋文明の百首』

仄かなる三日月立ちて夕紅九十九里の方をまたかへりみる 『続青南集』

<ほのかな三日月が立って空は一面夕焼けている、その九十九里浜をまたふり返って見る。>

昭和四十年「上総安房」より。文明の師、伊藤佐千夫は千葉出身で生家近くの九十九里浜を愛し何度も歌にしている。文明にとって左千夫は単に歌の師にとどまらず人生の恩人でもあった。生涯を通じて数多くの左千夫を偲ぶ歌を作り、特に九十九里浜は何度も訪れ、太平洋をのぞむその雄大な風景を歌っている。自身が年を重ねるのちれて益々、左千夫に対する恩義の情は深くなった。この歌の鮮やかな色彩に左千夫への思慕がにじむ。

老い朽ちし桜はしだれ匂はむも此の淋しさは永久のさびしさ 『続々青南集』

<老い朽ちた桜はしだれ桜で、今咲こうとしている。この淋しさは永久のさびしさだ。>

昭和四十四年七十八歳、昔の恩人の疎開跡を訪ねての歌。その人が逝去してから既に二十年ほど経っている。そこでは老いて朽ちかけた桜がそれでもなお枝を伸ばし咲こうとしていた。いつか枯れ切るまで、わずかな生きる力を振り絞って、来る春ごとに花を咲かすのだろう。恩人も友人も多くは既に亡く、永久に続くようなさびしさの中に一人立っている。老いた桜に自らを重ねるかのように、抒情豊かに歌い上げている。

1月27日(火)

朝は曇っていたが、晴れてきた。しかし寒い。

今村翔吾『イクサガミ』天を読む。天は、前に一度読んでいるのだが、ほとんど初読同然。京都から東海道を通って江戸へ。「蟲毒」殺害、生き残りの旅である。後、地・人・神の巻がある。感想は全冊読んだ時にしたい。

  珈琲のカップに上る湯気あればしあわせと思ふ冬の午後なり

  缼くるものわれにもありて鬱然と珈琲を喫む冬の快楽(けらく)

  珈琲に苦さなければ旨くなしその苦さこそ快楽につづく

『孟子』離婁章句上80-1 曾子、曾晳を養ふに、必ず酒肉有り。将に徹せんとすれば、必ず与ふる所を請ふ。『余り有りや』と問へば、必ず『有り』と曰ふ。曾晳死す。

曾元、曾子を養ふに、必ず酒肉有り。将に徹せんとするも、与ふる所を請はず。『余り有りや』と問へば、『亡し。将に以て復び進めんとするなり』と曰ふ。此れ所謂口体を養ふ者なり。曾子の若きは、則ち志を養ふと謂ふ可きなり。親に事ふること、曾子の若き者は可なり」

  親に仕えんとすれば将に曾子のごとくせむ口腹を求めず

川本千栄『土屋文明の百首』

牛の子の如くにからびしくそつけて臥やる一日は侘しかりけり 『続青南集』

<牛の子のように干からびた糞をつけたまま横になっている一日は侘しかったなあ。>

「一日」は「ひとひ」。昭和三十七年「病みて」より。同年一月、七十一歳の文明は心筋梗塞に倒れ、三か月間入院した。四十四年間続けた「アララギ」の選歌も辞した。この歌は自分で尻も拭けない状況を、事実そのままに歌っており、それが滑稽でもあり物悲しくもある。尻に糞を付けたままの仔牛、というのは農の人らしい観察だが、その比喩により、病気の老人が弱々しく頼りなく、どこか可愛らしい存在に感じられる。

立ちかへり立ちかへりつつ恋ふれども見はてぬ大和大和しこほし 『続青南集』

<何度も何度も引き返しきて恋しくおもうけれども、全てを残らず見ることはできない大和、大和が恋しい。>

「大和し」の「し」は強調。七十三歳の文明は「短歌研究」昭和三十九年一月号に「やまとの国」と題する全百三十二首の大作を発表した。三十七年に心筋梗塞を病んだことを考えると、旅程も含めて驚異的な復活だった。文明は歌会や万葉踏査のため何度も同じ地域を訪れており、大和(奈良)には特に愛着があった。同じ語の繰り返しによって韻律を整えつつ、大和への愛を歌い上げる。倭健命の「大和しうるはし」も思わせる。