4月7日(火)

雨が降りそうで、曇っている。雨が降るらしい。

  葉山

  波頭高く荒れたる葉山の海の色、雲を映してどんみりとする

  白き花こぶしが惚け散りはじむ。葉山の町を通り抜けたり

  (こん)(もり)した葉山の森に隠れしが御用邸には門番が立つ

『孟子』万章章句下132-2 伊尹(いゐん)は曰く、『(いづ)れに(つか)ふるとして君に非ざらん。何れを使ふとして民に非ざらん』と。治まるも亦進み、乱るるも亦進む。曰く、『天の(こ)の民を生ずるや、先知(せんち)をして(こう)(ち)を覚さしめ、先覚(せんかく)をして(こう)(かく)を覚さしむ。(われ)は天民の先覚者なり。予将に此の道を以て此の民を覚まさんとす』と。天下の民、匹夫匹婦も堯舜の(たく)与被(よひ)せざる者有るを思ふこと、己推(おのれお)して之を溝中(こうちゆう)(い)るるが(ごと)し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすればなり。

  伊尹のは天下の重大事を自ら背負つて立つ気にあらむ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

黄金(こがね)の中山に 鶴と亀とはもの語り 仙人(わらは)(みそ)かに聞けば 殿(との)受領(ずりやう)になりたまふ
            (四句神歌・雑・三二〇)

【現代語訳】黄金に輝く山の中で、鶴と亀とが何か語り合っている。仙人に仕える童子がこっそり立ち聞きしてみれば、殿様が受領におなりになるというめでたいお話だったよ。

【評】神仙世界と現実世界を結ぶような祝い歌。屋敷の主人が受領になった(あるいはこれからなるであろう)ことを寿ぐ歌で、貴族の邸宅に出入りする芸能者が歌ったものであろう。「中山」は、仙境の中心の山といった意味にも受け取れるが、『梁塵秘抄』には、修行時代の釈迦が「檀德山(だんとくせん)の中山に 六年行ひたまひしか」(檀特山の山中で六年間も仏道修行をなさった(二一九)と歌う一首があって、「中山」が山中の意味で使われているので、第一句は「黄金に輝く山の中で」と解しておきたい。黄金でできた山とはいかにもめでたく、富の象徴としてふさわしい。受領になれば、そうした山のような黄金を手にすることができるということも暗示されているだろう。

鶴も亀も不老長寿を表すめでたいもので、『梁塵秘抄』の祝い歌にもしばしば登場する。ただし、海に亀が「遊ぶ」(三一八・三二一) 、松の梢に鶴が「遊ぶ」(三一六)のように、「遊ぶ」と表現されることが多いのに対し、当該今様は、鶴と亀とが「もの語り」と、積極的な擬人化によって両者の対話の様子を取り上げている。さらに、仙人に仕える童が立ち聞きをするという、世俗のいたずらっ子のような姿を描き、童話風に微笑ましい情景を作り上げている。

「受領」は、中央から派遣され、国の支配にあたった地方官(国司)の最高者であり、任国内の支配は受領に大きくゆだねられたので、微税を強化するなどして、莫大な財産を得た者も多かった。平安時代の漢詩文集『本朝文粋』六には国司の楽しみとして「金帛蔵に満ち、酒肉案に推す」(金銭や絹などの財宝が蔵に満ち、酒や贅沢な料理が食卓にあふれる)ことをあげている(「案」は机の意)。豊かさを体現する存在として、受領は人々の憧れであった。(→三七六)

4月6日(火)

朝から晴れ。

  わが住むは地獄に近き処なり。さうにちがひなし嘘つきたれば

  どうせ役に立たない老いの一人なり。つげ義春に倣ひ温泉旅に

  寧楽の正倉院に蔵はれし桑木阮咸(くわきのげんかん)よ。音色聞かせよ

『孟子』万章章句下132 孟子曰く、「伯夷は目に悪色を視ず。耳に悪声を聴かず。其の君に非ざれば(つか)へず。其の民に非ざれば使はず。治まれば則ち進み、乱るれば則ち退く。(わう)(せい)の出づる所、(わお)(みん)の止まる所、居るに忍びざるなり。郷人(きやうじん)(を)るを思ふこと、(てう)(い)(てい)(くわん)以てを、塗炭(とたん)に坐するが如し。(ちう)の時に当り、北海の(ほとり)に居り、以て天下の(す)むを待てり。故に伯夷の風を聞く者は、頑夫(ぐわんぷ)(れん)に、懦夫(だふ)も志を立つる有り。

  伯夷には頑迷・貪欲なる者も感化されつつ廉潔・志立てり

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

いづれか法輪(ほふりん)へ参る道 内野(うちの)通りの西の京 それ過ぎて や 常磐(ときは)(ばやし)のあなたなる 愛敬(あいきやう)流れ来る大堰(おほゐ)(かは)   (四句神歌・霊験所歌・三〇七)

【現代語訳】どれが法輪寺へ参詣する道かといえば、内野を通って西の京、それを過ぎて、ほら、常磐林の向こうに見えるのは、ほんのり色っぽい感じの漂ってくる大堰川。

【評】御利益の著しい寺社について詠じた霊験所歌の中の一首。洛中から法輪寺への参詣路を歌う。法輪寺は嵐山渡月橋の南にあり、虚空菩薩を祀る。『枕草紙』の「寺は」の段にも「壺阪」「笠置」についで名が見えている。「内野」は大内裏跡の野の意。

大内裏はしばしば焼亡したため、その跡を「野」とした呼び名である。「西の京」は平安京のうち朱雀大路より西の区域。『梁塵秘抄』では「西の京行けば 雀燕筒鳥や」(→三八八)と歌われ、鳥類に譬えられる遊女たちがたむろする場所でもあったらしい。「常磐林」は右京区太秦広隆寺北一帯の林で、現在でも京福北野線の駅に「常磐」がある。歌枕としては「常磐の森」が多く詠まれるが、鎌倉時代後期成立の類題和歌集(和歌を歌題別に分類したもの)『夫木和歌集』に、「常磐林」の用例がある。

嵯峨野なる常磐林は名のみしてうつろふ色に秋風ぞ吹く (実冬)
(嵯峨野にある常磐林は、色が変わらない常緑樹という意味の「ときは」という名を持つのに。それは名ばかりで、実際の常磐林の木々は紅葉しており、そこに秋風が吹いていることだ)   
最終句「愛敬流れ来る」の「愛敬」は愛らしさ、特に女性の媚を含んだなまめかしさを表すが、ここは、大堰川沿いの遊女を念頭に置いたものと解されている。南北朝初期に成立した事典『拾芥抄』に「大井川」の注として「傀儡、上一町バカリニ居住ス」と記されているからである。「傀儡」とは芸能者の集団で、男女がグループを形成した。男たちは狩猟に従事し、奇術幻術の類や木偶を舞わせるなど芸を見せた。女たちは歌を歌い、客をとって夜をともに過ごすこともあった。したがて傀儡女は広義の遊女といってよい。法輪寺に限らず、寺社の周りには参詣者をあてこんで遊女らがひしめき合っていた。今様は寺社参詣に付随する性的なものをも、のびのびと掬い上げているのである。当該今様では、先の和歌で見たように、「ときは」すなわち色を変えない常緑樹のごつごつした印象を持つ「常磐林」と、「愛敬」すなわち柔らかな色っぽい雰囲気の漂う「大堰川」が対比的に並べられていて、言葉遊びの上でも味わい深い。

4月5日(日)

暖かくなるらしい。

  わが歩む道の先には死の世界。否応もなく抗ひがたき

赤が印象的であった。

  京の摺師にもとめし浮世絵。塀続くところに(こぼ)つ――錦秋ならむ

  いづこにか光の国あり。老いぼれのわれには行けぬ山のむかふに

『孟子』万章章句上131 万章問うて曰く、「(ある)ひと曰く、『百里奚(ひやくりけい)は自ら秦の牲を養ふ者に五(やう)の皮に(ひさ)ぎ、牛を(やしな)ひて以て秦の繆公(ぼくこう)(もと)む』と。信なるか」と。孟子曰く、「否。然らず。事を好む者、之を為すなり。百里奚は虞の人なり。晋人(しんひと)(すい)(きよく)(へき)と、屈産(くつさん)(じよう)とを以て、道に虞に仮り、以て(くわく)を伐つ。宮之(きゆうし)(き)は諫め、百里奚は諫めず。虞公の諫む可からざるを知りて、去りて秦に(ゆ)く。年已に七十なり。(すなは)ち牛を(やしな)ふを以て、秦の繆公(ぼくこう)(もと)むるの(を)(た)るを知らざるや、智と謂ふ可けんや。諫む可からずして諫めざるは、不智と言ふ可けんや。(ぐ)(こう)の将に亡びんとするを知りて、先づ之を去るは、不智と謂ふ可からざるなり。時に秦に挙げられ、繆公の与に行ふ有る可きを知るや、之に相たるは、不智と謂ふ可けんや。秦に相として其の君を天下に顕し、後世に伝ふ可きは、不賢にして之を能くせんや。自ら鬻ぎて以て其の君を成すは、郷党の自ら好する者も為さず。而るを賢者にして之を為すと謂はんや」と。

  百里奚の行ひすべて不賢ならず不智ならず大したものなり

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

聖の好むもの 木の節鹿角(かさづの)鹿の皮 蓑笠錫杖木欒子(もくれんじ) 火打笥(ひうちけ)岩屋の苔の衣
     (四句神歌・僧歌・三〇六)

聖の好むもの 比良の山をこそ尋ぬなれ 弟子やりて 松茸平茸(なめ)(すすき) さては池に宿る蓮の(はひ) 根芹 根蓴(ねぬ)(なは) 牛蒡(ごんぼう)河骨独活蕨土筆(つくづくし)  (四句神歌・雑・四二五)

【現代語訳】
修験者の好むものは、木の節、鹿角、鹿の皮、蓑傘、錫杖、木槵子(もくげんじ)火打笥(ひうちけ)、岩屋の苔の衣
     +
修験者の好むもの 比良の山をこそ探したことだ、弟子を遣って。探し当てたものは、松茸、平茸、滑薄、それから池に生えている蓮の(はい)、根芹、根蓴(ねぬな)(わ)、牛蒡、河骨、独活、蕨、土筆。

【評】聖の好むもの尽くし。「聖」は山野で修行する修験者のこと。僧歌の部に入っている前者は身にまとうものを中心に道具類を並べ、雑の部に入っている後者は全体にややくだけた趣で、山で採れるさまざまな食べ物を並べる。

三〇六番歌の「木の節」は中が空洞になった木のこぶで、托鉢用の鋺の代用とした。永観二年(九八四)に完成した仏教説話集『三宝絵』下・熊野八講会に「僧供は鉢鋺(はちかなまり)をも設けず、木のこぶに受け……鹿皮(ししのかは)(ごろも)を着、脛巾(はばき)をしたり」と見える。

「鹿角」は鹿の角で杖の頭に付けた。『今昔物語集』巻二九-九話に「鹿の角を付けたる杖」を持つ法師が見える。明応九年(一五〇〇)末に成立した、歌合形式をとった職人絵『七十一番職人歌合』では、鉢叩(瓢箪を叩いて歩き回る宗教的芸能者)の持ち物として、瓢を結びつけた鹿角杖が描かれている。「鹿の皮」はなめして僧衣とした(右に引用の『三宝絵』)。

「錫杖」は頭部に数個の金属の環をつけた杖。振ると音が鳴る。「木欒子」は木槵子の別称。落葉高木で実を数珠球にする。鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語六話には「木欒子の念珠の大きなる繰りさげたる聖法師」が見える。「火打笥」は火打石を入れておく箱。「岩屋の苔の衣」は岩屋(岩窟)に生えている苔を衣と見立てたものか。「苔の衣」は僧侶や隠者の衣を言うので言葉遊びとして「衣」を続けたのであろう。

四二五番歌はまず三首の茸をあげ、山菜と名前が続く。「比良の山」は琵琶湖西岸、比叡山北方にある山地。「滑薄」は榎茸の異称、「蓮の蔤」は蓮根の古称。「根芹」は芹の異称、「根蓴菜」はじゅんさいの異称である。茸と聖や僧は関係が深く、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』『沙石集』などの説話集には、茸にあたって死んでしまったり、死ぬはずが助かったり、死後、茸に生れ変わったりする僧の話が散見する。中国に目を向けると唐代の小説『冤債誌』には次のような話が見える。

徽州の汪氏の墳墓を二十年間守っていた僧がいた。その遺骸を葬った跡に多くの茸が生えてきた。この茸は大変美味で、いくら採っても次々生えてくる。汪氏は盗まれるのを恐れて周囲に垣根を作った。隣人が、夜ひそかに垣根を越えて中に入り、茸を採ろうとすると、茸の生えていた木が話し出す。「この茸はお前が食べられるようなものではない。無理に採れば必ず災いを受けるであろう。私は昔の庵主であるが、修行もせずにただ布施を受けるのみだったため、死後に罰を受け、茸となって生前の償いをしなければならなくなった。この茸の美味なのは、私の精血の化するところだからである。しかし、その償いもすでに終わったので、そろそろここを立ち去るつもりだ」。隣人が驚いて汪氏に告げたので、汪氏が見に行ってみると、確かに茸は一つ残らずなくなっていた。

僧の精血の化した茸とはいささか気味が悪いが、茸の不思議な力(いくら採っても次々生えてくる、一夜にして姿を消す、種類によっては毒を持つ、など)から生み出された話であろう。下って、狂言「(くさびら)」では、抜いても抜いても生えてくる茸を気味悪く思った男が山伏に祈祷を依頼する。山伏が自信たっぷりに祈ると茸はますます増えて、しまいには山伏を追い払ってしまう。当該今様でも歌われるような聖と茸の関わりの深さは、やがて力関係の逆転を生み、滑稽な笑いの芸能となっていくのである。

「〇〇を好むもの」という初句を持つ今様は多く、「博打の好むもの」(一七)、「遊女の好むもの」(三八〇)、「武者の好むもの」(四三六)などがあるが、その中でも「聖の好むもの」が二首、「凄き山伏の好むもの」(四二七)が一首あることからすると、特に、今様の修行者に寄せる関心の高さが窺われる。

4月4日(土)

今日は雨らしいが、朝はまだ曇っている。

  死者のこと思へば少し生き易きあの山越えて光の国へ

  わが脈拍は時計の針の如くにて時を刻めりやがて終焉(おはり)

  かくもかくも暴力に満つるこの世にてわれもまた加担する時やある

『孟子』万章章句上130-2 孔子 魯・衛に悦ばれず。宋の(くわん)司馬(しば)が将に要して之を殺さんそするに遭ひ、微服して宋を過ぐ。是の時孔子、(やく)に当れり。(し)(じやう)貞子(ていし)が、陳候(ちんこう)周の臣と為れるを主とせり。吾聞く、『近臣を観るには、其の主と為る所を以てし、遠臣を観るには、其の主とする所を以てす』と。若し孔子にして癰疽と侍人瘠還(せきくわん)とを主とせば、何を以て孔子と為さんや」と。

  たとへば孔子が癰疽(ようしよ)と侍人瘠還(せきくわん)てう寵臣に頼れば孔子ならず

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

峰の花折る小大德(こだいとく) 面立(つらだ)ちよければ(も)袈裟(げさ)よし まして高座に上りては (のり)の声こそ尊  けれ    (四句神歌・僧歌・三〇四)

【現代語訳】峰の花を折っている小大徳、顔だちもいし、裳や袈裟もほれぼれする。まして高座に上がった時は、説教の美声が本当に尊く聞こえることよ。

【評】若く美しい僧に対する関心を率直に歌った一首。「大徳」は高徳を備えた人の意で、僧に対する敬称。ここは「小大德」で年若い僧を表す。「裳」は腰に着用する衣、「袈裟」は僧服で左肩から右脇下にかけて掛けるもの。

鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語』一七五話には、文殊菩薩が「小大德」の姿で現れるという描写があり、同じ人物が「小僧」とも呼ばれている、当該今様の「小大德」の語は、少年のように見えるほどの年若さを提示しているのである。「峰の花折る」は仏に供える花を折っていることを表すが、少年のように若く、姿も声も美しい僧が花を手折る様子は、官能的な連想をも誘う。僧が花のように美しいことを示すと同時に、「花を折る」とはしばしば、男性が女性を得ることの比喩になるからである(→四五一)。僧の魅力に心ときめかせている聴聞の女人たちは、自らがあたかも折られた花々のようでもある。和泉式部との恋愛説話で有名な道命(→一五)も、「経をめでたく読み」(『宇治拾遺物語』一話)、「その声微妙にして、聞く人皆、首を低け貴ばずと云ふ事無し」(『今昔物語集』巻一二-三六話)という美声の持ち主であった。和泉式部も伝承の中で、美声の僧に手折られた一輪の花だったと言えようか。

『枕草紙』には「説教の講師は顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その顔をじつと見つめて説教を聞くから、教えの尊さもおぼゆれ」とあり、説教の講師は顔が美しければこそ、その顔をじっと見つめて説教を聞くから、教えの尊さも身にしみるといっており、美貌の僧への熱いまなざしが普遍的なものであったことを窺わせる。ただし、『枕草紙』が、講師の顔かたちが説教を左右するといった不謹慎なことは仏罰が恐ろしいので書き続けるまい、として途中で書き止めているのに対して、当該今様はより一層大胆な心情吐露になっていると言えるだろう。

4月3日(土)

快晴です。

  おでんの屋台に酒を飲む。誰かは知らぬが、隣りの女と

  おそらくはこの世のものではなきものとコップ酒盈たし小さく乾杯

  頬赤く隣の女立ちあがる少しふらつき闇に消えたり

『孟子』万章章句上130 万章問うて曰く、「(ある)ひと謂ふ、『孔子(ゑい)に於ては癰疽(ようしよ)を主とし、斉に於ては侍人(じじん)瘠環(せきくわん)を主とす』と。諸有りや」と。孟子曰く、「否。然らざるなり。事を好む者之を為すなり。衛に於ては顔讐(がんしう)(いう)を主とせり。弥子(びし)の妻は子路の妻と兄弟(けいてい)なり。弥子、子路に謂ひて曰く、『孔子我を主とせば、衛の(けい)得可きなり』と。子路以て告ぐ。孔子曰く、『命有り』と。孔子は進むに礼を以てし、退くに義を以てす。得ると得ざるとは、命有りと曰ふ。而るに癰疽(ようしよ)侍人瘠還(せきくわん)とを主とせば、是れ義無く命無きなり。

  孔子は癰疽(やうしよ)にも侍人瘠還(せきくわん)をも主とせざる是には義なく天命もなし

   *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

柴の庵に聖おはす 天魔はさまざまに悩ませど 明星やうやく出づるほど 終には従ひ奉る     
(四句神歌・僧歌・三〇三)

【現代語訳】粗末な柴の庵に聖が修行をしていらっしゃる。天魔は一晩中様々な妨害をして聖を悩ませたけれど、明けの明星やっと出たころ、遂に天魔は、聖に従い申したのであった。

【評】修行者が天魔の誘惑に打ち勝った場面を歌う一首。源信(九四二~一〇一七)作『天台大師和讃』の「其後華頂峰にして、後夜に座禅し給ふに 天魔は種々悩ませど 降伏し給ひ終りにき 明星漸く出づる程 胡僧形を現じてぞ」とある部分に依拠しているが、天台大師個人の修行譚を離れ、修行者一般の物語として受け取られたものと思われる。天魔が修行者を妨害するという話は多く見られ、たとえば平安時代後期の説話集『今昔物語集』巻一-六話には、悟りを開く前の釈迦が修行しているところに、天魔が自らの美しい娘三人を遣わして誘惑させたり、恐ろしい異形の者たちを送って脅させたりした話が載る。

典拠の和讃が、大師が天魔を降伏した、としているのに対し、当該今様は、天魔が修行者に従い申した、と一貫して天魔の側に視点がある点は興味深い。『梁塵秘抄』には他にも、天魔と八幡神の対話を含んだ今様がおさめられているが、それらも、天魔からの働きかけに中心があって、八幡神の反応は描かれていない。

天魔が八幡に申すこと (かしら)の髪こそ前世の(ほう)にて(お)ひざらめ そは生ひずとん

(きぬ)(がさ)長幣(ながぬさ)なども奉らん 呪師の松犬とたぐひせよ しないたまへ (三三七)
(天魔が八幡の神に向かって言う言葉。「頭の髪こそ前世の報いで生えないのでしょう。それは生えなくてもよい。頭を隠せるように、絹蓋、長幣なども差し上げましょう。呪師の松犬と仲良くおやりなさい。そうしなさいよ」)

吉田野に神祀る 天魔(てま)は八幡に葉椀(くぼて)さし (ひら)(で)取り 賀茂の御手洗(みたらし)精進(さうじ)して 皿には(か)陰子(せ)こそ砂ほどは取れ  (四一八)
(吉田野に神を祀る。天魔は八幡の神に葉椀(柏の葉などを何枚も重ねて綴り、中を窪ませて作った椀型の食器)を供え、葉盤(柏の葉などを重ね合わせて作った皿)を設け、「賀茂の御手洗池で精進して、皿には海胆をほんの砂粒ほどだけをお取りなさい」)

本来ならば主役であるべき八幡神がからかわれる対象ととなり、芸能者の呪師と仲良くおやりなさい、と暗に男色を勧めるような言葉(三三七)や、精進中に海胆といった生臭物を勧めるような様子(四一八)が連ねられ、天魔の行動や言葉の方に焦点が当てられている。三〇三番歌において、天魔は聖に敗北するのではあるが、あくまでもその天魔の側に寄り添って歌っていく姿勢は、権威あるものを批判的に見ようとする今様の性質の一端を示していると言えよう。

4月2日(木)

今日も雨。

  なにもかもが中途半端に終らんとす。われの一生不甲斐なきもの

たたかふ仏像(静嘉堂文庫美術館)

  広目天眷属立像のたくましき赤熱(しやくねつ)の色、(まなこ)怒りて

  会場の木造十二神将立像(午神)の右手愛らし。頬をささへ

『孟子』万章章句上129-3 吾未だ己を(ま)げて人を(ただ)す者聞かざるなり。況や己を(はづかし)めて、以て天下を正す者をや。聖人の行ひは同じからざるなり。或ひは遠ざかり或ひは近づき、或ひは去り或ひは去らず。其の身を潔くするに帰するのみ。吾其の堯舜の道を以て(たう)(もと)むるを聞く。未だ割烹を以てするを聞かざるなり。(い)(くん)に曰く、『天誅攻むることを(な)すは、牧宮(ぼくきゆう)(よ)りす。(われ)(はく)自り(はじ)む』と」

  伊尹が湯王を助けるはその都の毫から始む

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

春の焼野(やけの)(な)を摘めば 岩屋(いはや)(ひじり)こそおはすなれ ただ一人 野辺にて たびたび会ふよりは な いざたまへ聖こそ あやしの(やう)なりとも わらはが(しば)(いほり)
               (四句神歌・僧歌・三〇二)

【現代語訳】春の焼野で若菜を摘んでいると、岩の洞窟に聖がいらっしゃる。一人ぼっちで。野辺でたびたび会うよりは、ね、さあいらっしゃいませ、聖よ。見苦しい所ではあるけれど、私の粗末な柴の庵へ。

【評】若菜摘みの女性が修行の聖を誘惑する歌。

「焼野」は早春に枯れ草を焼き払った野。その後に萌え出てきた若葉を摘む。「聖こそ」の「こそ」は呼びかけ、「わらはら」は女性の謙遜した一人称代名詞「わらは」に、卑下の意を添える「ら」がついたもの。聖への敬意を示しながら巧みに誘惑する女性の言葉遣いには、つい引き込まれそうな臨場感がある。『梁塵秘抄』の中で次に置かれた三〇三番歌と連作と考えると、天魔が美女に変身して(あるいは天魔が魔性の女を送り込んで)、聖の修行を妨げる歌とも読めるし、もう一首後に置かれた、若く美しい僧に対する関心を歌った三〇四番歌のように、教えを受けるべき女性が聖に恋愛感情を抱いた歌とも読めよう(→三〇三・三〇四)。いずれにせよ、若菜摘みをする女性と一人石窟で修行する聖とがいる状況を独白的に説明する導入部に、聖に誘いかける女性の台詞が続くという戯曲的な構成を持っており、演劇に伴う歌謡であった可能性が高いようにも思われる。

藤原明衡(あきひら)(九八九?~一〇六六)の記した『新猿楽記』には、「(やま)(しろ)大御(おほいご)(さし)(あふぎ)」という寸劇の演目が記されるが、これは、扇で顔をさし隠し、つつしまやかに装いながらも、男性をじっと見つめて気を引こうとしている女性の様子を滑稽に演じたものと考えられる。当該今様がこうした寸劇に伴う歌謡であったと考えると、この今様を台詞として歌っている女性に対し、その誘惑に負けそうになっている、あるいは負けてしまったという聖の(役者の)身振りは、観客を大いにわかせたことであろう。

2026年4月1日(水)

雨だ。

  春の気配ここにもありて菜の花の連なるところにわれも佇む

  あくせくとしても命は一つなり苦しまぬがよし命のつごもり

  陰画には心微動す。しかれども肉体はなべて反応をせず

『孟子』万章章句上129-2 (たう)、人をして(へい)を以て之を(へい)せしむ。囂囂(がうがう)(ぜん)として曰く、『我何ぞ(たう)(へい)(へい)を以て為さんや。我豈(けん)(ぽ)の中に(を)り、是に由りて以て堯舜の道を楽しむに(し)かんや』と。湯三たび往きて之を聘せしむ。既にして(はん)(ぜん)として改めて曰く、『我(けん)(ぽ)の中に(を)り、是に由りて以て堯舜の道を楽しまんよりは、吾豈是の君をして堯舜の君(た)らしむるに(し)かんや。吾豈吾が身に於て親しく之を見るに若かんや。天の此の民を生ずるや、先知(せんち)をして(こう)(ち)を覚さしめ、先覚(せんかく)をして(こう)(かく)(さと)さしむ。(われ)(てん)(みん)の先覚者なり。予将に斯の道を以て此の民を覚さんとす。予之を覚すに非ずして誰ぞや』と。天下の民、匹夫(ひつぷ)匹婦(ひつぷ)も堯舜の(たく)(かうむ)らざる者有るを思ふこと、己、推して之を溝中に(い)るるが(ごと)し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすること(かく)の如し。故に(たう)に就きて之を説くに、(か)を伐ち民を救ふことを以てす。

  伊尹は天下を背負ひ暴虐なる夏の桀王を討たんとすなり

   *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

われらが修行に(い)でし時 珠洲(すず)の岬をかい回り うち巡り 振り捨てて 一人越路(こしじ)の旅に出でて 足打(あしう)ちせしこそあはれなりしか  (四句神歌・僧歌・三〇〇)

【現代語訳】私が修行に出た時は、珠洲の岬をぐるりと回り、ずっと巡って行き、ついには岬を振り捨てて、一人北陸路の旅に出て、足を痛めたことこそしみじみとつらいことだったよ。

【評】孤独で苦しい修行の日々を回想した一首。「われら」の「ら」は、後の句に「一人」とあることから、複数を表す接尾語ではなく、自らを卑下していうものと考えられる。

「珠洲の岬」は能登半島の北東端の岬。承元三年(一二〇九)長尾社歌合に「海辺帰雁」の題で詠まれた和歌として、いくつらぞ珠洲の岬を振り捨てて越なる里へいそぐ雁がね (『夫木和歌集』顕昭)
(幾列になるだろうか、珠洲の岬を振り捨てて越の里へと急ぎ飛んでいく雁たちよ)の一首が見える。「珠洲」に「鈴」を掛け、「鈴」の縁語である「振る」に続けていく表現、「珠洲の岬」から「越」への移動を詠む点は(人と雁との違いはあるものの)、当該今様と共通している。

『源平盛衰記』巻四六によれば、文治元年(一一八五)九月に能登国へ流罪となった平時忠の配所は「鈴の御崎」であった。都から遠い辺境の地というイメージが見て「能登国 珠洲郡三座」の筆頭にも「須須神社」が挙げられれているが、一一世紀後半から一二世紀にかけて、修験霊場へと変貌していった。

「越路」は北陸道のことで、日本海沿岸の若狭・越前・越中・越後・加賀・能登・佐渡の七国(現在の福井・富山・石川・新潟の四県)を指す。

「足打」は、足がもつれること、足を痛めること、地団駄を踏むこと、足の疲れをとるためにたたいて揉みほぐすことなど諸説あり、「足占」(歩いて行って左右どちらかの足で目標の地点に着くかによって吉凶を占うこと)ととる説もあるが、「あはれ」と直接つながることからすると、足を討ちつけて痛めたというような直接的な苦痛を言っているものと考えたい。しかしその肉体的苦痛は回想の中に歌われていることによって、ややおぼるげになり、珠洲の岬といった都からはるかに遠い場所に焦点を当てることとあいまって、感傷的な気分を漂わせてもいよう。