3月31日(火)

今日は一日、雨。

  この世をば滅ぼすことには否といへどされど刻々に海面上がる

  白梅、紅梅の花咲けば匂ひ充ちたり春来んとする

  ローソンに購ふ冷凍食材を電子レンジに六分温む

『孟子』万章章句上129 万章問うて曰く、「人言へること有り。『伊尹(いゐん)割烹(かつぽう)を以て(たう)(もと)む』と。(これ)有りや」と。孟子曰く、「否。然らず。伊尹は有莘(いうしん)(や)に耕して、堯舜の道を楽しむ。其の義に非ざるや、其の道に非ざるや、之を(ろく)するに天下を以てするも、顧みざるなり。繋馬(けいば)千駟(せんし)も、視ざるなり。其の義に非ざるや、其の道に非ざるや、一介(いつかい)も以て人に与へず。一介も以て(これ)を人より取らず。

  伊尹は人に与へず人からも取らずただ清廉な人物である

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

文殊の(かい)に入りにしは 娑竭(しやが)(ら)(わう)波をやめ 龍女(りゆうによ)が南へ行きしかば 無垢や世界にも月澄めり
   (四句神歌・経歌・二九三)

【現代語訳】文殊菩薩が海にお入りになった時には、娑竭羅王は荒波をしずめてお迎えし、龍女が南へ行ったので、南方無垢世界にも月が澄み渡っている。

【評】龍女成仏(→二〇八)とそれに先立つ文殊菩薩の竜宮行きを歌った一首。『法華経』提婆達多品には、文殊菩薩が海中で『法華経』を説いたことは記されるが、海に入る時の描写は見られない。当該今様は、龍女の父・娑竭羅王が荒波をしずめて文殊を歓迎したであろうと想像し、荒海に入ろうとする文殊、命令する娑竭羅王、静まる波、といった動きのある劇的な場面を作り上げている。

「無垢や世界」の「や」は音の調子整えるために添えた間投助詞で、「無垢世界」と同じ。龍女の浄土は「南方無垢世界」と呼ばれる。『法華経』提婆達多品によると、龍女は文殊菩薩の教えを聞いて悟りを開き、たちまちに男子と成って南方無垢世界へ行き、蓮華の上に坐して、衆生のために法を説いた。月の描写も経本文には見えないが、当該今様は、龍女の悟りを澄んだ月に譬え、静かな波と対比させて美しい一首に仕立てている。    
なお、鎌倉時代には、獅子に乗った文殊菩薩が四人の侍者とともに海を渡る、渡海文殊像(彫刻・絵画)が制作されるようになる。一群の像は、中国における文殊の聖地五台山信仰を背景に生まれた図像に基づくが、海を渡る表現は日本に独特のものとされる。古い作例として、文永一〇年(一二七三)康円作、渡海文殊像があるが、この像では台座の框の上面に波が描かれている。また、醍醐寺蔵「文殊渡海図」(一三世紀)では海の波の上に雲が描かれ、その上に、四人の眷属を従えて獅子に乗った文殊菩薩が描かれる。平安時代の現存例は知られないが、海に入る文殊を歌う今様の成立は、このような図像の成立と軌を一にするものと言えるのではないだろうか。

3月30日(月)

まあ、晴れてます。

  ノアの箱舟には乗る資格なきはこのわれなり。階段(タラップ)を前にただ呆然と

これだけの薬を服用している。

  バクトラミン・リクシアナ・アシクロビル・セレスタミンそしてべレキシブル

北海の氷山壊れ全地球の海面上昇す。滅びに近く

『孟子』万章章句上128-3 伊尹(いゐん)(たう)(しやう)として、以て天下に王たらしむ。湯崩じ、太丁(たいてい)未だ立たず。(ぐわい)(へい)は二年。(ちゆう)(じん)は四年。(たい)(かふ)、湯の典刑(てんけい)(てん)(ぷく)す。伊尹、之を桐に放すること三年なり。太甲過ちを悔い、自ら怨み自ら(おさ)めて、桐に於いて仁に処り義に(うつ)ること三年、以て伊尹の己に(をし)ふるを聴くや、(はく)に復帰す。周公の天下を(たも)たざるは、猶ほ(えき)(か)に於ける、伊尹の(いん)に於けるがごときなり。孔子曰く、『唐・(ぐ)(ゆづ)り、夏后・殷・周は継ぐ。其の義は一なり』と」

  唐堯と虞舜は賢者に譲り、夏・殷・周は子孫が継承すいづれも天意なり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

妙見大悲者は 北の北にぞおはします 衆生願ひを満てむとて 空には星とぞ見えたまふ
     (四句神歌・仏歌・二八七)

【現代語訳】妙見菩薩様は、空の北の果てにいらっしゃるよ。衆生の願いをかなえようというので、空には星としてのお姿を現していらっしゃるのだよ。

【評】星の信仰を歌った一首で、四句神歌・仏歌の最終歌。

「妙見大悲者」は北極星を神格化した妙見菩薩を言うが、信仰の対象にはしばしば北斗七星も含まれる。「大悲者」は大きな慈悲の心を持つ者の意で、ふつう、観音菩薩の尊称に用いるが、妙見菩薩の本地を観音とする考え方もあり(『覚禅抄』)、ここでは妙見菩薩に用いて、信仰の深さを強調しているのであろう。妙見菩薩は、国土を擁護し、災難を消滅させ、敵を退ける菩薩とされ(『七仏八菩薩諸説大陀羅尼神呪経』)、三井寺では、この菩薩を本尊とする修法・尊星王法は、秘法中の秘法とされる。尊星王法は今様の流行した院政期に特に重んじられるようになり、白河・鳥羽両天皇によって、三井寺には二つもの尊星王堂が建てられた。応永年間(一三九四~一四二八)に、三井寺の記録を集大成した『寺門伝記補録』によると、「尊星王堂 北院」は承歴四年(一〇八〇)、白河天皇によって建てられたものであり、等身の尊星王菩薩(妙見菩薩)像が安置された。また、「尊星王堂中院」は、三井寺の平等院内に鳥羽天皇が一堂を建てて、尊星王菩薩像を安置したことに始まるが、後白河院もまた信仰が深く、永暦二年(一一六一)には、この尊星王堂の供養に臨幸した。こうした時代背景を考えると、今めかしい素材としての妙見菩薩は、仏歌の最後を飾る一首にふさわしいものと言えよう。

3月29日(日)

晴れて、温かくなるらしい。

  万物の霊長などと言ふものの人類ほど醜悪なるもの他にはあらず

  いつの世も戦ふことを専らに世界全土に平和来たらず

  われを含め人類こそが滅ぼすか。この地球を去るノアの箱舟

『孟子』万章章句上128-2 丹朱は不肖、舜の子も亦不肖なり。舜の堯に相たり、禹の舜に相たるや、年を(ふ)ること多く、(たく)を民に施すこと久し。啓、賢にして、能く(つつし)んで禹の道を承け継ぐ。(えき)の禹に相たるや、年を歴ること少く、沢を民に施すこと未だ久しからず。舜・禹・益、相去ること久遠(きうゑん)に、其の子の賢不肖なる。皆天なり。人の能く為す所に非ざるなり。之を為すこと莫くして為る者は天なり。之を致すこと莫くして至る者は、命なり。匹夫にして天下を有つ者は、徳必ず舜・禹の(ごと)くにして、又天子の之を(すす)むる者有り。故に仲尼は天下を有たず。世を継いで、以て天下を有つもの、天の廃する所は、必ず桀・紂の若き者なり。故に益・伊尹(いゐん)・周公は、天下を有たず。

  天命があれば容易に見捨つることなしされば益・伊尹・周公はなれず

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

極楽浄土の東門(とうもん)に (はた)織る虫こそ(けた)に住め 西方(さいほう)浄土の灯火(ともしび)に 念仏の(ころも)ぞ急ぎ織る
                       (四句神歌・仏歌・二八六)

【現代語訳】極楽浄土の東門たる四天王寺の西門で、機織る虫こそはその桁に住んでいるよ。西方浄土の灯火をたよりに、念仏の衣を急ぎ織っているのだよ。

【評】大阪の四天王寺西門で見出したキリギリスを、一生懸命に念仏の衣を織っていると捉えてみせた一首。自由自在な見立てと聞きなしが楽しい。

舞台となる大阪の四天王寺の西門は、極楽浄土の東門と向かい合っている、あるいは極楽浄土の東門そのものであるという考え方があった。前者の考え方を表すものとして、『梁塵秘抄』には「極楽浄土の東門は難波の海にぞ対へたる」と歌う今様(一七六)があって、極楽浄土の東門と四天王寺の西門は難波の海(大阪府)をはさんで向かい合っているという認識が示される。二八六番歌においては、四天王寺西門を極楽の東門そのものとして、桁(柱と柱を結ぶように渡してその上に構築するものの支えとする材木)に住むキリギリスに焦点が当てられている。

本来、四天王寺の信仰の中心は、宝塔・金堂にあったが、西方極楽浄土への憧れが高まると、信仰の中心は、より西側にある西門に移った。鳥羽院の頃から盛んになってきた新興の西門信仰を歌った当該今様は、まさに今様(=当世風)の一首だったのである。

3月28日(土)

まあ晴れてるか。

  正倉院宝物の一つ伎楽面、獅子児どことなくわが孫に似る

  この(わらしべ)の伎楽面。あるときは虚空に(いつはり)を申す

  嘘・嘘・嘘。嘘、嘘だらけの現世(うつしよ)は戦乱はびこり人殺すなり

『孟子』万章章句上128 万章問うて曰く、「人言へること有り。『禹に至りて徳衰へ、賢に伝へずして、子に伝ふ』(これ)有りや」と。孟子曰く、「否。然らざるなり。天、賢に与ふれば、則ち賢に与へ、天、子に与ふれば、則ち子に与ふ。昔者(むかし)、舜、禹を天に薦むること、十有七年。舜崩じ、三年の喪(をは)りて、禹、舜の子を陽城に避く。天下の民之に従ふこと、堯崩ずるの後、堯の子に従はずして、舜に従ふが(ごと)し。禹、益を天に薦むること、七年。禹崩じ、三年の喪畢りて、益、禹の子を箕山(きざん)(きた)に避く。朝觀(てうきん)訟獄(しようごく)する者、益に(ゆ)かずして、(けい)に之く。曰く、『吾が君の子なり』と。謳歌する者、益を謳歌せずして、啓を謳歌す。曰く、『吾が君の子なり』と。

  わが君の子であるからに益を謳歌せず啓を謳歌す

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

不動明王恐ろしや 怒れる姿に剣を持ち 索を下げ うしろに火炎燃え上るとかやな 前には悪魔寄せじとて降魔(がま)の相    (四句神歌・仏歌・二八四)

【現代語訳】不動明王は恐ろしいことだ。忿怒の姿で剣を持ち、縄を下げ、背後には火炎が燃え上がるとかいうことだ。前には悪魔を寄せつけまいとして、猛々しい降魔の形相をしているよ。

【評】不動明王の姿を具体的に生々しく歌う一首。不動明王は、仏法を悪から守り、すべての悪を退治すると信じられた神。煩悩を断ち切る剣と、言うことを聞かない者を調伏する縄(羂索)を持つ。背後の火炎は、毒蛇を食らうという迦楼羅(金翅鳥と訳される伝説上の巨鳥)を象ったもの、「降魔の相」は、悪魔を降伏させる時の怒りの形相。『梁塵秘抄』には、仏・菩薩の慈愛に満ちた優しい姿を歌う今様が多く収められているが、一方で当該今様のような全身に怒りを漲らせた不動や、猛火の地獄を訪れる地蔵(→四〇)などの荒々しさ、勇猛さに焦点を当てたものもあって印象的である。

不動明王は、今様の流行した平安時代末期から鎌倉時代には修験道における主要な崇拝対象になっていった。たとえば、熊野の那智の滝で修行した文覚(一一三九~一二〇三)の不動明王信仰はよく知られている。今様には、修験者としての聖や山伏を歌ったものも多く(→三〇六、四二五、四二七)、恐ろしくも霊験あらたかな不動明王への関心は、山伏らの活躍を通しても、今様を支えた人々の間にも高まっていったであろう。

不動明王は多数の絵画・彫刻に表現されているが、今様と同時代の画像で著名なものは、身の色から「青不動」と通称する青蓮院蔵のもの、「赤不動」と通称する高野山明王院蔵のものである。平安前期の作で園城寺蔵の「黄不動」と合わせて三不動と呼ばれる。当該今様はこうした画像を目の前にしたような具体的な表現を持っている。

「青不動」は特に華麗な迦楼羅炎が特徴的だが、当該今様の持つ視覚的鮮やかさはこのような画像によって育まれたものと考えられる。鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語』三八話には、絵仏師良秀が自分の家の焼けるのを見て、不動明王の火炎の描き方を会得したと喜ぶ話が見え、不動明王の背負う炎が絵画制作上の重点になっていたことが窺われる。

3月27日(金)

やっと晴れた。

  こぶし・白木蓮・小出毬の花ことしの春も白き花咲く

  苦しみて苦しみ苦しむその果てに死と呼ぶもののわれにもくるか

  死後に(ゆ)場処(ばしよ)などあらず生のことさつぱりと忘れゆくもよからふ

『孟子』万章章句上127 万章曰く、「『尭は天下を以て舜に与ふ』と。(これ)有りや」と。孟子曰く、「否。天子は天下を以て人に与ふること能はず」と。「然らば則ち舜の天下。を(たも)つや、(たれ)か之を与へたる」と。曰く、「天之を与ふ」と。「天の之を与ふるは、(じゆん)(じゆん)(ぜん)として之を命ずるか」と。曰く、「否。天言はず。行ひと事とを以て、之を示すのみ」と。曰く、「行ひと事とを以て之を示すとは、之を如何(いかん)」と。曰く、「天子は能く人を天に(すす)むれども、天をして之に天下を与へしむること(あた)はず。諸侯は(よ)く人を天子に薦むれども、天子をして之に諸侯を与へしむること能はず。大夫は能く人を諸侯に薦むれども、諸侯をして之に大夫を与へしむること能はず。昔者(むかし)、尭、舜を天に薦めて、天之を受く。之を民に(あらは)して、民之を受く。故に曰く、『天(ものい)はず。行ひと事とを以て、之を示すのみ』と」

  天は何も言はず行為と事柄のみに天意を示す

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

金の御嶽にある巫女の 打つ鼓 打ち上げ打ち下ろしおもしろや われらも参らば ていとんとうとも響きなれ 響きなれ 打つ鼓 いかに打てばか この音絶えせざるらむ
     (四句神歌・神分・二六五)

【現代語訳】金峰山にいる巫女が打つ鼓よ、打ち上げ打ち下ろししえ面白いことだよ。われらも鼓を打ち申し上げたいことだ。テイトントウとも響き鳴れ。打つ鼓よ。どんな風に打っているから、このように音が途絶えることなく響くのだろう。

【評】巫女が神を降し、神がかりするために鼓を打つ様子を歌った一首。金の御嶽は奈良県吉野郡の金峰山。名高い霊山で源顕兼(一一六〇~一二一五)編の『古事談』巻三‐二五話には、金峰山の「正しい巫女」(占いのよくあたる巫女)が登場する。

「打ち上げ打ち下ろし」は、鼓の音の緩急(高く強くなったり、低く弱くなったり)を示すとともに、それと連動して鼓を構える位置に高低が生じているものと考えたい。

中世の絵巻物を繙くと、『春日権現記絵」巻一五には、座って、左肩の上に置いた鼓を打つ巫女の姿が描かれ、『馬医草紙』には胸の下あたりで縦向きに持った鼓の下面を右手で打っている巫女の立姿が描かれる。また、『石山寺縁起』巻五には、座った膝に上に横に倒した鼓を置き、右側の革を右手で打っている巫女の姿も描かれている。体に対してさまざまな高さで鼓が打たれていることが窺われるのである。当該今様では、巫女の持つ鼓自体のダイナミックな動きと音の変化があいまって「おもしろや」の感嘆につながるものと思われる。

「参る」は、従来、「参詣する」の意に解されてきたが、当該今様ではすでに参詣して巫女の鼓の音を「この音」として聴いていると考えられるから、この「参る」は「する」の謙譲語で、鼓を打つことそのものを指しているのであろう。神を降す巫女の興奮状態に引き込まれ、巫女と一体になって、鼓に「響き鳴れ、響き鳴れ」と命じる歌い手の様子が髣髴する。『梁塵秘抄』には、

寝たる人 うちおどろかす鼓かな いかに打つ手のたゆかるらん いとほしや (四七一)
(寝ている人の目をはっと覚まさせる鼓の音だよ。その鼓を打つ手はどんなにだるいことだろう。かわいそうにね)

という一首もある。鼓を打つ巫女に寄り添う表現を持つ点で二首は共通するが、二六五番歌が巫女への称賛を、四七一番歌が巫女への同情を歌っている点で好対照をなしている。

3月26日(木)

雨、雨だ。やがて雨は上がるらしいが……

  わが歩みの(さき)行く小爺(こぢぢい)、懸命に追ひ越さむとするにとても及ばず

  それほどに早きものとは思はねど小爺抜けず(つら)さへ見えず

  三度目の悪性リンパ腫は治らない不具合ばかりを私に遣す

  人生の後半戦を戦ふには足弱り、筆記に会話困難なりき

『孟子』万章章句上126-2 (かん)(きう)(もう)曰く、「舜の尭を臣とせざるは、則ち吾既に命を聞くことを得たり。詩に云ふ、『普天(ふてん)(もと)王土(わうど)に非ざるは莫く、率土(そつど)(ひん)(わう)(しん)に非ざるは莫し』と。而して舜既に天子と(な)る。敢て問ふ、瞽瞍(こそう)の臣に非ざるは如何」と。曰く、「是の詩や、是を之に謂ふに非ざるなり。王事に(らう)して、父母を養ふことを得ざるなり。曰く、『此れ王事に非ざること莫し。我独り(けん)(らう)す』と。故に詩を説く者は、文を以て辞を害せず。辞を以て、志を害せず。意を以て志を(むか)ふ。是れ之を得たりと為す。(も)し辞のみを以てせば、雲漢の詩に曰く、『周余(しうよ)(れい)(みん)孑遺(げつゐ)有ること(な)し』と。(こ)の言を信ぜば、是れ周に遺民無きなり。孝子の至りは、親を尊ぶより大なるは莫し。親を尊ぶの至りは、天下を以て養ふより大なるは莫し。天子の父為るは、尊ぶの至りなり。天下を以て養ふは、養ふの至りなり。詩に曰く、『永く言に孝を思ふ。孝を思へば維れ(そく)たり』と。此を之れ謂ふなり。書に曰く、『(こと)(つつし)みて瞽瞍に(まみ)え、虁虁(きき)として斉(りつ)す。瞽瞍も亦(まこと)とし(したが)へり」と。是を父得て子とせずと為す』と。

  舜と瞽瞍、ただの子と父とはならず誠意を覚へ舜にしたがふ

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

八幡へ参らんと思へども 賀茂川桂川いと速し あな速しな 淀の渡りに舟浮けて 迎へたまへ大菩薩
  (四句神歌・神分・二六一)

【現代語訳】石清水八幡宮にお参りしようと思うけれど、賀茂川も桂川も流れがとても速い。ああ速いことだなあ。淀の渡し場に舟を浮べて、お迎えください、八幡大菩薩よ。

【評】石清水八幡宮(京都府八幡市男山に鎮座)への水路参詣の困難さを歌う一首。八万大菩薩自身の船のお迎えで救ってほしいと望む。熊野詣に羽を望む前歌(→二五八)と同様の趣向である。

京都市を南北に流れる賀茂川は、北西から東南に流れる桂川(桂川の上流は大堰川、そのさらに上流には保津川と呼ばれる)と合流し、その桂川は宇治川、木津川と合流して淀川となる。淀は、桂川・宇治川・木津川三川の合流地点で水運の中心地であった。八幡神は、平安時代初期には鎮護国家の神として、護国霊験威力神通大自在王大菩薩、大自在王菩薩などと称され、「八幡大菩薩」の略称が広く用いられた。神仏習合現象の一つである。煩悩の海に沈む衆生を仏・菩薩が救い上げて船に乗せ、彼岸(悟りの境地)あるいは浄土に渡すという発想は仏教歌謡の中にしばしば見られるが

当該今様の背景にも同様の考え方が窺える。  
目前に見る自然の脅威によって、その困難な道の先にある社の尊さはさらに増であろう。仏教的常套表現が、生き生きとした実感をもって捉え直されている一首と言えよう。 

3月25日(水)

朝はいい天気だけれど曇って雨になるらしい。

  若き頃のわたくしに似る青年が自動販売機にいのちを選ぶ

  正一位三眼六足の(きつね)(がみ)小さな社に手を合せをり

  わが願ひは世界に戦乱の無きことなりせんなきものと思へど祈る

『孟子』万章章句上126 (かん)(きう)(もう)問うて曰く、「語に云ふ、『盛徳の士は、君も得て臣とせず。父も得て子とせず。舜南面して立つや、尭諸侯を(ひき)ゐて、北面して之に(てう)す。瞽瞍(こそう)も亦北面して之に朝す。舜、瞽瞍を見て、其の(かたち)(いた)める有り。孔子曰く、<(こ)の時に於てや、天下(あやう)いかな。岌岌乎(きふきふこ)たり>と』識らず。此の語誠に然るか」と。孟子曰く、「否。此れ君子の言に非ず。(せい)東野人(とうやじん)の語なり。堯(らう)して舜(せつ)するなり。堯典に曰く、『二十(いう)八載、(はう)(くん)乃ち(そ)(らく)す。百姓(ひやくせい)考妣(かうひ)(さう)するが如し。三年、四海八音(はちいmm)(あつ)(みつ)す』と。孔子曰く、『天に二日無く、民に二王無し』と。舜既に天子為り。又天下の諸侯を帥ゐて、以て堯の三年の喪を為さば、是れ二天子なり」と。

  孔子が言ふ「天に二日無く、民に二王無し」尭の生前、舜は摂政なり

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

熊野へ参らむと思へども 徒歩(かち)より参れば道遠し すぐれて山(きび)し 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ 羽(た)(にやく)王子(わうじ)  (四句神歌・神分・二五八)

【現代語訳】熊野にお参りしようと思うけれど、歩いて参詣すれば道が遠い。とりわけ山が険しい。馬で参詣すれば苦行にならない。空からお参りしよう。羽を授けてください。若王子の神よ。

【評】馬の旅を否定しながら、翼を望むという、熊野詣に関するユーモラスな一首。身体的苦痛に耐えることこそ功徳となって、神仏の利益を得られるという考え方が前提にあるため、熊野詣には、馬に乗るほど楽をしてはならないが、かといって徒歩で行くのはひどくつらい。徒歩の旅と馬の旅との間に位置付けられるのが、与えられた翼を使い、自力ではばたいていくことであった。自由奔放な想像力がほほえましい。熊野に祀られた十二の神(十二所権現)の中に「飛行(ひぎよう)夜叉」のいることや、神武天皇が東征の折、熊野で八咫烏に導かれたという『日本書紀』に見える伝承が、空から参詣するという発想のきっかけになった可能性もあろう。

「若王子」は、若宮とも呼ばれ、十二所権現の一つで、熊野の御子神(主神の子である神)の第一位とされた。当該今様では、直接には、その若王子の神を勧進し、祀った藤代王子を指すと考えられる。熊野参詣路には、熊野の御子神を祀った社が設けられ、九十九王子と総称された。王子とでは奉幣や経供養、芸能の奉納が行われている。藤代王子は若一王子とも呼ばれ、和歌山県名草山付近和歌の浦にある。十二所権現が初めに示現した地であり、熊野の神域の最初の入り口(一の鳥居)であった。

建仁元年(一二〇一)一〇月の藤原定家『熊野御幸記』によると、京都を出発してから藤代王子までは四日かかっており、それから七日で熊野本宮に到着している。京都から本宮までの道のりのおおよそ三分の一、いささか疲れも溜ってきた折、いよいよく、熊野の神域に足を踏み入れるその藤代王子という結界の地で、参詣者は思いを新たにしたことであろう。当該今様の次に置かれた一首には、「和歌の浦」の地名とともに、若王子(藤代王子)が歌われている。

熊野の権現は 名草の浜にこそ降りたまへ 若の裏にしましませば 歳はゆけども若王子
  (二五九)
(熊野の神様は名草の浜にこそ降臨なさるのだ。和歌〈若〉の浦においでになるから、歳を経てもいつまでも若い若王子でいらっしゃることよ。