3月7日(土)

今日も晴れてる。

2月25日のこと

  ひさびさに海老名も雨がふりたまる上流にある津久井湖いかに

  中津川上流にある宮ケ瀬ダムすこしは夏に備へられたか

  全国のダム湖に水が満ちたればそれでよしとおもへどいかが

『孟子』離婁章句下117-2 此に人有り。其の我を待つに(わう)(ぎやく)を以てすれば、則ち君子必ず自ら反するなり。『我必ず不仁ならん。必ず無礼ならん。此の物(なん)ぞ宜しく至るべけんや』と。其の自ら反して仁なり。自ら反して礼有り。其の横逆(な)(かく)のごとくなるや、君子必ず自ら反するなり。『我必ず不忠ならん』と。自ら反して忠なり。其の横逆由ほ是のごとくなるや、君子曰く、『此れ亦妄人なるのみ。此の如くんば、則ち禽獣と奚ぞ択ばんや。禽獣に於て又何ぞ難ぜん』と。

  君子には自ら反省を繰り返すその果てにこの男は禽獣同然

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

二月十五日(あした)より これらの法文(ほふもん)説きおきて やうやく中夜(ちゆうや)に至るほど (かうべ)は北にぞ臥したまふ
                (法文歌・涅槃歌・一七四)

【現代語訳】釈迦は二月十五日の朝から尊い法文を説きおかれて、ようやく真夜中になったころに、頭を北にして横になられたのであった。

【評】釈迦の入滅を歌った一首。涅槃会(釈迦入滅の日に行う法要)で用いられる永観(一〇三三~一一一一)作『舎利講式和讃』の一部を抜き出している。和讃には「世間もとより常なくて これをぞ生死の法といふ 生も滅をも滅しをへ 寂滅なるをぞ楽とする 一切衆生ことごとく 常住仏性備はれり 実には変易ましまさず 二月十五日の朝より これらの妙法説きをへて やうやく中夜に至るほど 頭を北にて臥したまふ」とあり、これらの法文」が、①世間は無常であり、寂滅(煩悩の消えた悟りの境地)こそ真の楽であること、②一切の衆生には仏性が備わっており、仏は常に存在して変化することがないこと、という教えを指すことがわかる。独立した歌謡としては「これらの」という指示語がやや唐突であるが、対象が曖昧なまま、法のありがたさだけを、自明のこととして「これ」と身近に受け取っていくような感覚的な表現と言えようか。

今様の名手・源清経を外祖父に持つ西行は、
願はくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃 (『山河集』)
と詠み、釈迦入滅の「その」二月十五日死にたいと願ったが、ほぼ望み通り、文治六年(一一九〇)二月十六日に没した。このことは、多くの人々を感動させたが、釈迦の入滅が、「その」という語で表されている点、「これらの」という指示語を使った当該今様の表現と響き合うところがあるように思われる。

釈迦は入滅の前に、頭を北に、顔を西に、右脇を下にして横たわったと伝えられる。釈迦入滅の姿を描いた涅槃図も多く描かれ、涅槃会の折には堂の中央に掛けられた。和歌山・金剛峰寺蔵の仏涅槃図(国宝)は、わが国現存最古の絵画による涅槃図であるが、これは応徳三年(一〇八六)、まさに白河院が院政をはじめた年に制作されたものである。この涅槃図は、インドの浮彫や敦煌の壁画、中国の絵画に比べて、釈迦の横たわる宝台前のスペースが広くなって、会衆の数が多くなっていること、その結果、参加型ともいえるような、礼拝者自身が涅槃図の情景に参入する会衆の一人になりかわるような効果があることが指摘されている。

今様もしばしば、経典の物語の世界に、歌い手聞き手が入り込んでいくような表現を持ち、金剛峰寺仏涅槃図の画面構成とも一脈通じるところがある。当該今様を歌い聞く人々はこうした涅槃図の場面をも、ありありと思い浮かべたであろう。

3月6日(金)

晴れているが、昨夜雨だったらしい路上が濡れている。

  垣間見る女の裸体に興奮する小僧を描くつげ義春は

  海から上がりメメクラゲに左腕をさされたるぼく、不思議なる世界へ

  不可思議の裸の女体に興奮す。風呂の中描くつげ義春の絵

『孟子』離婁章句下117 孟子曰く、「君子の人に異なる所以の者は、其の心に存するを以てなり。君子は仁を以て心を存し、礼を以て心を存す。仁者は人を愛し、礼ある者は人を敬す。人を愛する者は、人恒に之を愛し、人を敬する者は、人恒に之を敬す。

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

行住坐臥にこの経を 読む人あらば(ひま)もなく 普賢遥かに尋ね来て 縁をば結びたまひけり
         (法文歌・法華経二十八品歌・普賢品・一六九)

【現代語訳】毎日の立ち居振る舞いにつけ、いつもこの『法華経』を読む人がいたならば、たちまちのうちに、普賢菩薩は遥か東方からやって来て、縁を結んでくださるということだよ。

【評】『法華経』の最終章・普賢菩薩勧発品で説かれる普賢菩薩の加護を歌った一首。

普賢菩薩が釈迦に言った言葉「是の人、若しくは(あゆ)み若しくは立ちて、この経を読誦せば、我は(そ)の時、(ろく)(げ)(びやく)(ぞう)(おう)に乗り、大菩薩衆と倶に其の所に(いた)りて、自ら身を現し、供養し守護して、其の心を安んじ慰めん。……是の人、若し坐して此の経を(し)(ゆい)せば、爾の時、我は復、白象王に乗りて、其の人の前に現れん」による。

『法華経』によると、普賢菩薩は遥か遠い東方の「(ほう)威徳上(いとくじょう)王仏(おうぶつ)(こく)」からやって来たとされ、『観普賢経』によると、「東方浄妙国土」に住むとされる。白象に乗った美しい普賢菩薩の姿はしばしば絵画化されたが、現存する普賢菩薩像の頂点に位置するとして高く評価されているのは、まさに今様の流行期、一二世紀前半から中頃にかけて制作された、東京国立博物館蔵普賢菩薩絵像(国宝)である。『法華経』は、女人成仏を説くところから平安時代以降、女性の篤い信仰を集めたが、『法華経』の守護神である普賢菩薩像も同様であった。その結果、普賢菩薩像は、女性たちの好みを反映して、より細身に優雅に造像される傾向にある。遊女が生身の普賢菩薩として現れる話(→二六)などを思い合わせると、普賢菩薩は、今様の担い手である遊女とも因縁浅からぬ存在と言える。

白河院政期を経て鳥羽院政期に至る間に、普賢菩薩造像には追善(死者の冥福を祈るため、仏事・善事を行うこと)の意味が強く付加されるようになったらしく、後白河院も、嘉応元年(一一六九)四三歳の折り、自らの御世の冥福を祈る逆修として、金色等身の普賢菩薩像を造っている。

当該今様は、こうした時代背景の中で『法華経』の内容を超えて、さらに特別な普賢菩薩への思いに支えられていると言えよう。

3月5日(木)

晴れだが、寒い。

木内昇『新選組 幕末の青嵐』読了。新選組を描いて、総集編の感じがある。定本と言ったところか。近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・永倉新八・原田左之助・斎藤一・藤堂平助・伊藤甲子太郎、佐藤彦五郎らが、それぞれ章ごとに主人公になったかのように綴られる。これだけ人物像がはっきり物語られれば、これから新選組を書こうとするものが少なくなることが予想される。そして総司の死や歳三の最後には涙が出そうになる。涙もろいのは老いたことの証しだろうか。

  (しま)はれた箱よりことしも笑顔にて女雛・男雛の登場である

  外に出て少しは嬉しさにはしゃげばよし女雛よ、男雛よ

  金屏風立てて背後を守りをる雛人形の落ち着き得たり

『孟子』離婁章句下116 公行子、子の喪有り。右師(いうし)往きて弔す。門に入るや、進みて右師と言ふ者有り。右師の位に就きて、右師と言ふ者有り。孟子 右師と言はず。右師悦ばずして曰く、「諸君子皆(くわん)と言ふに、孟子独り驩と言はず。是れ驩を簡にするなり」と。孟子之を聞きて曰く、「礼に『朝廷には位を(へ)て相与に言はず。階を踰えて相(いふ)せず』と。我礼を行はんと欲するに、子敖(しがう)は我を以て簡なりと為す。亦異ならずや」と。

  喪は大礼なり。さすれば階を隔て話せぬわれを失礼といふは異なり

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

法華経(たも)てる人そしる それをそしれる報いには (かしら)七つに(わ)れ裂けて (あ)梨樹(りず)の枝に異ならず
       (法文歌・法華経二十八品歌・陀羅尼品・一六三)

【現代語訳】『法華経』を信じ保つ人を非難するなら、その非難した報いとして、頭は七つに割れ裂けて、阿梨樹の枝に異ならぬ無残な有様になるだろう。

【評】『法華経』陀羅尼品にある十羅刹女(仏教の守護神。羅刹は本来、インドの神話・伝説に現れる鬼であるが、陀羅尼品の十羅刹女は法華行者を守る善神である)ン言葉「若し我が呪に順はずして説法者を悩乱せば、頭は破れて七分と作ること、阿梨樹の枝の如くならん」による。陀羅尼品では、薬王菩薩以下の菩薩や仏教の守護神がそれぞれ『法華経』信仰者を守る呪文を説く。その最後に置かれたのが十羅刹女の呪文「イデイビ イデイビン イデイビアデイビ イデイビ デイビ デイビ デイビ デイビ ロケイ ロケイ ロケイ ロケイ タケイ タケイ タケイ トケイ トケイ」であった。

「阿梨樹」はインドにあったとされる樹の名。七つの花托(花柄の頂上にあって、花弁、雄しべ、雌しべ、萼などをつける部分)を持つとされる。「枝」というのはこの花托をいうらしい。

当該今様では、『法華経』受持者を誹謗した者の側に下される罰の酷さを強調し、『法華経』受持者に与えられる守護の強さを反対側から歌っている。「人そしる それをそしれる報い」という続き具合には、むごたらしい罰を提示する前の息せき切った感じが表れていよう。   『法華経』普賢菩薩勧発品では、「もし『法華経』を軽んじるものがあれば、歯は欠け、唇は黒く鼻は平らになり、手足はねじれ、口は歪み、目は斜視となり、体には悪しき瘡ができて膿みただれ、悪臭を放ち、その他ひどい病気を得るだろう」とされており、『法華経』誹謗の報いがここでも具体的に表現されている。こうした報いのむごたらしさは、地獄あ絵の詳細さなどと同様、一方では人々の怖いもの見たさの好奇心を満たすものでもあり弘仁年間(八一〇~八二四)に成った説話集『日本霊異記』でも、『法華経』を書写して寺に奉納した女人を謗った者の顔が醜く歪んだ話(下-二〇)や、『法華経』を読誦する僧を嘲笑した者の口が歪み、そのまま死んでしまった話(中-一八)が語られている。

3月4日(水)

朝から晴れ。

ハン・ガン『光と糸』を読む。ノーベル文学賞受賞後、初のエッセイ・詩・植物日記・写真……ハン・ガンの小説を読む前に読んでおきたかった。「光へ向かう生命の力。」「人間性の陽溜まりと血溜まりと。その二つが常に隣り合っていて、どちらかへ行こうとしたらもう一つも絶対に通らなくてはいけない。」(帯文)

  公園の白梅匂ふ一隅に目と耳とわが(からだ)もよりゆく

  白梅が匂ふところを避け得ざるしばしとどまり写真に写す

  公園を散歩の道に選びしは梅の花咲くすずめごがくる

『孟子』離婁章句下115 孟子曰く、「天下の性を言ふや、則ち(こ)のみ。故なる者は、利を以て(もと)と為す。智に(にく)む所の者は、其の(さく)するが為なり。(も)し智者にして禹の水を(や)るが(ごと)くならば、則ち智を悪むこと無し。禹の水を行るや、其の事無き所に行る。

如し智者も亦其の事無き所に行らば、則ち智も亦大なり。天の高きや、星辰の遠きや、苟も其の故を求むれば、千歳(せんざい)(につ)(し)も、坐して致す可きなり」

  智者は自然の道理に従ひて無理せず智を働かせば徳また多し

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

数多(あまた)の菩薩の頂を 釈迦の右の手房(たぶさ)して 三度(みたび)かい撫でたまひしは 一乗弘めむためなりき
       (法文歌・法華経二十八品歌・嘱累品・一四八)

【現代語訳】多くの菩薩たちの頭を、釈迦が右の手で三度お撫でになったのは、法華の教えをさらに広めようというためであった。

【評】『法華経』(ぞく)累品(るいほん)の内容を平易にまとめた一首。嘱累品冒頭に「(そ)の時、釈迦牟尼仏は法座より(た)ちて、大神力を現わし、右の手を以て無量の菩薩・魔訶(まか)(さつ)の頂を(な)でて、この(ことば)(な)したまはく「我は無量百千万億阿僧祇劫(あそうぎこう)において、この得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修得せり。今以って汝等に付属す。汝等よ、(ま)(さ)に一心にこの法を流布して、広く(ぞう)(やく)せしむべし」と。是の如く三たび諸の菩薩・魔訶薩の頂を摩でて……」とある。

「一乗」は、衆生を仏の悟りに導く唯一の教え、すなわち『法華経』を指す。経本文に忠実な作ではあるが、数多・三(度)・一(乗)と数を並べた面白さがある。

「手房」は手首、腕の意味で用いられることもあるが、ここでは手と同義。

この劇的な場面は「摩頂付嘱」の画題でしばしば絵画化されており、釈迦が右手を伸ばし、ひざまずく菩薩の頭に触れている様子が描かれる。

3月3日(火)

昨日の雨は止んで晴れ。しかし、いささか寒い。

  京の町に運命のごとくに出会ひたる陶製雛の独特な貌

  釉薬が輝くばかりの男雛・女雛ともに愛らし京都の雛は

  女雛も男雛もおちょぼ口紅く愛らし小さな人形

『孟子』離婁章句下114 孟子曰く、「西子も不潔を蒙らば、則ち人皆鼻を掩ひて之を過ぎん。悪人有りと雖も、斎戒沐浴すれば、則ち以て上帝を祀る可し」

  醜悪なる人も斎戒沐浴身を正せば天帝の祭にも奉仕せむ

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

釈迦の御法のそのかみは さまざま見知らぬ人ぞある 地より涌きつる菩薩たち みこれ金の色なりき
   (法文歌・法華経二十八品歌・涌出品・一二五)

【現代語訳】釈迦が『法華経』を説いたその時、さまざまの見知らぬ人たちがいたことだ。それは地から涌き出た菩薩たちで、みな金色に輝いていたのだったよ。

【評】『法華経』従地涌出品で説かれる地涌の菩薩の出現場面を描いた一首。経本文に「仏、是を説く時、娑婆世界の三千大千の国土は、地、皆、震裂して、その中より、無量千万憶の菩薩・魔訶薩ありて、同時に涌出せり。是の諸の菩薩は、身、皆、金色にして、三十二相と無量の光明とあり」とあって、地涌の菩薩の身が金色に輝いていたことがわかる。「見知らぬ人」は、弥勒菩薩以下が、地から出現した菩薩たちを不審に思って釈迦に尋ねる偈の一節「無量千万憶の大衆の諸の菩薩は 昔より未だ曾て見ざる所なり」によるが、突然現れたさまざまな「見知らぬ人」をまず提示し、謎解きをする構成は、耳から聞く歌として効果的である。

従地涌出品をテーマにした和歌は、地涌の菩薩の様子を詠むよりもむしろ、釈迦が成道してからわずか四十年ほどの間に、このように多くの求法者たちを教化し得たことに対する驚きを比喩的に詠む例の方が多い。それは、釈迦が多くの求法者たちを短期間で教化し得たというのは、とても信じられないことで、百歳の老人が二十五歳の若者を父と呼ぶようなものだという譬えである。この比喩に依拠した例として、

たらちねの親よりこそは老いにけれ年あらがひを人もしつべし (『公任集』)
(年若い者が、親より年をとって老いたなどということは、人々も信用せず疑いを持つに違いない)

いかでかは子よりも親の若からん老いては若くなるにやあらん(『赤染衛門集』)
(どうして子より親の方が若くあることがあろうか。老いては若くなるということがあるのだろうか)

のようなものがある。また、地から涌き出た菩薩たちを詠む場合も、和歌においては、次のように、菩薩の内面のけがれのなさ焦点を当てており、出現の姿の鮮やかさを描く今様とは異なっている。

いさぎよき人の道にも入りぬれば六つの塵もけがれざりけり (『発心和歌集』)
(地涌の菩薩たちは、清らかな境地に入っているので、煩悩と迷いの世界にも汚されることがないのであった。)

世の中のにごりになにかけがるべき御法の水にすすぐ心は (『法門百首』)
(地涌の菩薩たちは、どうして世の中の濁りにけがされることがあろうか。御法の水にすすがれた清らかな心は)

一方、涌出品の経旨絵においては、多くの菩薩が地から涌きだす場面が繰り返し描かれている。半身はまだ土に埋まったままの菩薩たちの姿は、きわめて視覚的印象の強いものであり、絵画化されるのにふさわしいが、当該今様もそうした劇的な場面を鮮やかに切り取っている。

3月2日(月)

朝から雨、雨。

  わが歩みの先行く小爺。懸命に追い抜かんとすれど距離縮まらず

  わが前に歳たけ歩む子爺の後ゆくはわれ許さざるべし

  追へど追へども届かざる子爺の背ただ見るばかり

『孟子』離婁章句下113-2 「鄭人(ていひと)子濯孺子(したくじゆし)をして衛を侵さしむ。衛、庾公子(ゆこうし)(し)をして之を追はしむ。子濯孺子曰く、『今日、我が(やまひ)(おこ)る。以て弓を執る可からず。吾死なんかな』と。其の僕に問うて曰く、『我を追ふ者は誰ぞや』と。其の僕曰く、『庾公之斯なり』と。曰く、『我生きん』と。其の僕曰く、『庾公之斯は、射を尹公之(ゐんこうし)他に学ぶ。尹公子他は、射を我に学ぶ。夫の尹公子他は、端人(たんじん)なり。其の友を取ること、必ず端ならん』と。庾公子斯至る。曰く、『夫子何為れぞ弓を執らざる』と。曰く、『今日、我が疾作る。以て弓を執る可からず』と。曰く、『小人は射を尹公子他に学ぶ。尹公子他は、射を夫子に学ぶ。我夫子の道を以て、反つて夫子を害するに忍びず。然りと雖も、今日の事は、君の事なり。我敢て廃せず』と。矢を(ぬ)き輪に叩き、其の金を去り、乗矢を発して而る後に反れり」と。

  射の道もあれこれあれど逢蒙を弟子にとるのも羿のあやまち

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

(りん)王頭(わおかしら)に光あり 久しく隠して人知らず 法華経一度も聞く人は (かうべ)の珠をぞ手に得たるる
             (法文歌・法華経二十八品・安楽行品・一二二)

【現代語訳】転輪聖王の髻の中には光り輝く珠がある。長く秘して人は知らないが、『法華経』を一度でも聞いた人は、その髻の中の珠を手に入れるようなものだ。

【評】『法華経』安楽行品で説かれる髻中明珠の譬えを歌った一首。仏が文殊に対して述べた譬え話は次のようなものであった。転輪聖王(正義をもって世界を支配する理想の王)が諸国を討伐する際、戦功を立てた部下にはさまざまの恩賞を与えるが、髻(頭上に束ねた髪)の中の明珠(輝く宝石)だけは、みだりに与えることはない。このように、仏も人々に諸経を説いて聞かせたが、今まで『法華経』だけは説かなかった。しかし、王が特別に大きな戦功のあるものに明珠を与えるように、今、この最上の宝石のような『法華経』を与えるのだ。

安楽行品の偈(詩の形で表現された部分)「末後に乃ち為に 是の法華を説くこと

王が髻の明珠を解きて之に与えんが如し」に依っているが、当該今様は、経本文のような明珠を与える王(法華経を与える仏)の立場からではなく、明珠の存在を知らなかった人、『法華経』を聞き得た人と、教えを受ける人の立場から歌われている。救われるべき人々に寄り添った表現になっていると言えよう。同様の表現は、今様と同時代の釈教歌の中にも散見する。

元結の中なる法のたまさかにとかぬ限りは知る人ぞなき
(『続後選和歌集』・釈教・京極前関白家肥後)
(元結の中にある法の玉はたまたま髪を解かない限りは知る人もないことだよ)

その玉を結びこめたる元結もとくべきほどのありけるものを (『平忠度集』)
(明珠を結びこめた元結もとくべき時はあったものを)

3月1日(日)

曇り。

  マンションの間を通るカラスの眼その視界にわれも捉えられたり

  まだ暗きに二羽のカラスが通りゆくその黒き眼もわれを捉ふ

  声たてず飛ぶ明烏二羽がゆくわれは視てをりその行末を

『孟子』離婁章句下113 (ほう)(もう)、射を羿(げい)に学ぶ。羿の道を尽して、思へらく、天下惟羿のみ己に(まさ)れりと為すと。是に於て羿を殺せり。孟子曰く、「是れ亦羿も罪有り」と。公明儀曰く、「宜ど罪無きが若し」と。曰く、「薄しと云ふのみ。悪んぞ罪無きを得ん」と。

羿には落度がないやうな。孟子言ふ「軽いかなというだけで罪もあるかな」

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

達多五逆の悪人と 名には負へども実には 釈迦の法華経習ひける 阿私仙人これぞかし
           (法文歌・法華経二十八品歌・提婆品・一一一)

【現代語訳】提婆撻多は五逆の大罪を犯した悪人として知られているが、本当のところは、釈迦が前世で『法華経』を習った阿私仙人こそが、この達多なのであるよ。

【評】『法華経』提婆達多品前半の内容をまとめた一首。釈迦が過去の世に、王位を捨てて法を求めていた時、阿私仙という仙人がやってきて、「自分の言いつけどりにしたならば『妙法蓮華経』という素晴らしい法を教えよう」と言う。釈迦は喜んで千年の間仙人に仕え、やっと法を得ることができた。その時の仙人が今の提婆達多である。「提婆達多は遠い未来に天王如来という名の仏になるであろう」と釈迦は説いた。

「五逆」は、仏教倫理に背く五つの大罪で、⑴母を殺す(殺母)、⑵父を殺す(殺父)、⑶阿羅漢(修行者)を殺す(殺阿羅漢)、⑷教団を分裂させる(破和合僧)、⑸仏に危害を加えて仏の身体から血を流させる(出仏身血)という五種の行為を指す。『法華経』注釈書『法華文句』によると、提婆達多が犯したのは、①五百人の比丘を誘拐したこと、②大石を投げつけて仏身より血を出させたこと、③阿闍世王をそそのかして酔象を放ち、仏を害そうとしたこと、④華色比丘尼を撲殺したこと、⑤手の指に毒を塗り、仏足を礼することによって仏を害そうとしたこと、の五つである(『今昔物語集』巻一‐一〇話「提婆達多、奉諍仏語」にも同様の五つの行為が記される)が、これは、一般的な五逆罪にあてはめると、殺阿羅漢(④)、破和合僧(①)、出仏身血(②③⑤)の三つの罪に対応しよう。提婆達多は殺母、殺父の罪は犯していないが、ここでは、提婆達多の悪の面を強調するために「五逆」の語を用いたものと考えられる。

提婆達多が極悪人であることは、『法華経』提婆達多品には記されないが、説話や経の注釈書にしばしば見られる。当該今様は、経本文にはない悪の面をあわせ表現することによって、大罪を犯した提婆達多こそ、実は釈迦の師であったのだ、と、一首に劇的な反転をもたらしている。救済から最も遠いところにいるはずの極悪人提婆達多が、釈迦の師であったという輝かしい過去を持ち、釈迦に成仏を保証されたことは、この今様を聞く人々を大いに勇気づけたことであろう。