3月23日(月)

今日朝は雨だ。上がってくるらしいが。暖かい、しかし界隈の桜は咲かない。

今日は結婚記念日らしい。まあ乾杯だね。

  年々に送りくれたる日本橋「神茂」のはんぺん今年も届く

  泉鏡花の小説を「神茂」の半平(はんぺい)つつきつつ山葵醤油に読み終りたり

至極なり。泉鏡花を読み継ぎて最後に『泉鏡花俳句集』(秋山稔編)

『孟子』万章章句上125 万章問うて曰く、「象は日に舜を殺すを以て事と為す。立つて天子と為れば、則ち之を放するは何ぞや」と。孟子曰く、「之を封ずるなり。或ひと曰く、放すと」万章曰く、「舜は共工を幽州に流し、驩兜を崇山に放し、三苗を三危に殺し、鯀を羽山に殛す。四罪して天下咸服せり。不仁を誅すればなり。象は至って不仁なり。之を有庳に封ず。有庳の人、奚の罪かある。仁人は固より是の如きか。他人に在りては則ち之を誅し、弟に在りては則ち之を封ずるは」と。曰く、「仁人の弟に於けるや、怒りを蔵さず、怨みを宿めず。之を親愛するのみ。之を親しんでは其の貴からんことを欲し、之を愛しては其の富まんことを欲す。之れ有庳に封ずるは、之を富貴にするなり。身天子為り、弟匹夫為らば、之を親愛すと謂ふ可けんや」と。舜は弟・象に怒りを隠さず怨みを根に持たず富貴をのぞむ

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

祇園精舎のうしろには 世も世も知られぬ杉立てり 昔より 山の根なれば生ひたるか 杉 神のしるしを見せんとて  (四句神歌。神分・二五五)

【現代語訳】祇園社の背後には何代を経たとも知られぬ古い杉が立っている。昔から山の麓であるからというので生えているのだろうか、杉よ。神の霊験を示そうとして。

【評】祇園社、すなわち八坂神社の神木として杉をたたえた一首。

「祇園精舎」は本来、インドの寺院名であるが、ここでは祇園社(今の八坂神社)を指す。祇園社を「祇園精舎」と言った例としては、元久元年(一二〇四)、俊成九十一歳の折の『祇園社百首』に「立春」の題で「逢坂の杉よりすぎにかすみけり祇園精舎の春のあけぼの」(逢坂山の杉林を過ぎてこちらの杉までずっと霞みがかかっていることだなあ、祇園社の春のあけぼのは)と詠んだもおがある。

当該今様では、その「祇園精舎」の「うしろ」に杉の立っていることが示されるが、「うしろ」という空間は神秘性の強い特殊な空間であった。たとえば、強大な霊威を発揮する異質な仏神は、寺院の「後戸」に祀られ、やがてそれが歌舞芸能の神としての性格を付与されていったことなども思い合わされる。神秘性の強い空間に、長い時間を経て立ち続けてきた杉を取り上げることで、祇園社の森厳な雰囲気を強調し、強い畏怖の念を表していると見ることができよう。ただし「生ひたるか杉」と、杉に親しく呼びかける表現は、信仰する人間と信仰される神とが厳しく隔てられいるのではない、親愛の情に裏打ちされた信仰のあり方を示しているように思われる。

先に引用した俊成の和歌には、祇園社と杉とがともに詠み込まれていたが、同じ俊成の『祇園社百首』には「霜」の題で「冬くれば杉の梢の初霜に神さびにけるほどぞ知らるる」(冬が来ると杉の梢におりる初霜に神々しさのまさる時を知ることだ)の一首もあり、祇園社の杉が詠まれている。時代は下るが、元徳三年(一二三一)に祇園社の大絵師・隆円によって作られた『祇園社絵図』(八坂神社蔵)には、本殿の後ろに三本の杉が描かれており、戦国時代後期の『洛中洛外屏風』(上杉本)にも同様に数本の杉が描かれている。また、宝永五年(一七〇八)一〇月一四日の「祇園社御法楽和歌」には「ふかみどり山の岩根のかげふかくしげるも幾代杉の一むら」(深い緑の山の岩根の陰に鬱蒼と茂って幾代を経たのだろうか、この杉の一群は)の一首が見え、「山の岩根」「しげるも幾代」の表現が、当該今様の「山の根」「世も世も知られぬ」「昔より」の表現と類似しているが、この和歌が古色蒼然たる杉の神秘性を詠んでいるのに対し、当該今様はそうした杉に対する畏怖の念だけではなく、呼びかけによる親愛の情も巧みに歌い込み、親しみやすい一首に仕立てている。

3月22日(日)

晴れているが、家の中は寒い。

  清澄で、艶やかで、細緻なり。神仙、天使的と三島由紀夫云ふ

  最晩年の泉鏡花の幽霊譚あまり恐くはないが蠱惑的なり

  *

『孟子』万章章句上124-3 曰く、「然らば則ち舜は偽りて喜べる者か」と。曰く、「否。昔者(むかし)、生魚を鄭の子産に(おく)るもの有り。子産校人をして之を池に(やしな)はしむ。校人之を(に)る。反命して曰く、『始め之を(はな)てば、圉圉焉(ぎよぎよえん)たり。(しばら)くすれば則ち洋洋焉(やうやうえん)たり。(いう)(ぜん)として逝けり』と。子産曰く、『其の所を得たるかな。其の所を得たるかな』と。校人出でて曰く、『(たれ)か子産を智なりと謂ふ。予既に烹て之を(くら)へり。曰く、<其の所を得たるかな。其の所を得たるかな>と』故に君子は欺くに其の方を以てす可し。(し)ふるに其の道に非ざるを以てし難し。彼、兄を愛するの道を以て来る。故に誠に信じて之を喜ぶなり。(なん)ぞ偽らんや」と。

  偽りもまた複雑なもの信ずるに値するもの己にあるか

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

近江の(みづうみ)に立つ波は 花は咲けども実も(な)らず や 比叡(ひえ)御山(おやま)の西裏にこそ や 水飲(みづの)みありと聞け
  (四句神歌・神分・二五四)

【現代語訳】琵琶湖に立つ波には、花は咲くけれど実もならず、枝も伸びないよ。だけどね、比叡のお山の西裏にはね、水の実ならぬ水飲があると聞いているよ。

【評】琵琶湖の波を題材に、言葉遊びを展開した一首。荘厳な趣を持つ前歌(→二五三)と好対照をなす。波頭を白い花に譬えることは古くから見られ、『万葉集』巻一三には「逢坂をうち出でてみれば近江の海白木綿花に波立ち渡る」(逢坂をうち出てみると、琵琶湖には白い木綿の花のように波が立っている)とある。こうした見立てから「波の花」という歌語も生まれ、『古今和歌集』秋下、文屋康秀詠に「草も木も色かはれどもわたつ海の波の花にぞ秋なかりける」(秋になれば、草も木も色が変わるけれど、色を変えることのない大海の波の花には秋はないのだなあ)と見える。このように波には花は咲くが、しかし、実はならず、枝も伸びない、とし、それなのに、比叡山の西裏には、ないはずの「水の実」があると洒落た。

「西裏」は琵琶湖のある東岸(延暦寺や日吉大社のある坂本側)を比叡山の表とし、西の京都側を裏とみた表現・京都の西坂本(今の修学院離宮の辺り)からの登山路を雲母坂といい、「水飲」はその頂上付近の地名。一三世紀後半に成立した比叡山延暦寺の寺誌『叡岳要記』所収の天禄元年(九七〇)慈慧太子良源の起請文には、比叡山に籠る僧がいるべき場所を区切って、東は悲田院、南は般若寺、西は水、北は楞厳院までとし、それ以上出てはならないことが記されている。その西の結界が「水飲」であり、『梁塵秘抄』三一二番歌「根本中堂へ参る道」の道行歌謡の中にも「雲母谷」と共に「水飲」の地名が見える。当該今様は、こうした重要な結界の地である「水飲」を、重々しい信仰の中にではなく、軽やかな洒落の中に歌い込めているのである。    
遊女との交流も知られ、今様と関わりの深い歌人・源俊頼(一〇五五?~一一二九?)は「比叡の山その大たけはかくれねどなほみづのみはながれてぞふる」(『永久百首』且見恋)と詠んでいる。ここでは「水のみ」(水だけ)と地名の「水飲」が掛けられている。

3月21日(土)

朝から晴れて、温かくなるそうです。

「あれ、蜻蛉が」お米膝つき手を合す裏の山には風が通る

  裏山の風一通り赤蜻蛉(そつ)と動いて女の影……二人

  *

  泉鏡花の幽霊譚を読みたるに味はひ細やかに清らかなりき

『孟子』万章章句上124-2 万障曰く、「父母舜をして(りん)(をさ)めしめ、階を(す)つ。(こ)(そう)廩を(や)く。井を浚へしむ。出づ。従つて之を(おほ)ふ。象曰く、『(と)(くん)(がい)することを(はか)るは、(みな)我が(せき)なり。(ぎう)(やう)は父母、倉廩(さうりん)は父母。干戈は(われ)、琴は朕、(ゆみ)は朕、(に)(さう)は朕が(せい)をむを治めしめん』と。象往きて舜の宮に入る。舜(しやう)に在りて琴ひけり。象曰く、『(うつ)(たう)として君を思ふのみ』と。忸怩たり。舜曰く、『(こ)(こ)臣庶(しんしよ)、汝其れ(われ)(おい)て治めよ』と。識らず、舜は象の将に己を殺さんとするを知らざるか」と。曰く、「(なん)ぞ知らざらんや。象憂ふれば亦憂へ、象喜べば亦喜ぶのみ」と。

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

近江の湖は海ならず 天台薬師の池ぞかし 何ぞの海 常楽我淨の風吹けば 七宝蓮華の波ぞ立つ
     (四句神歌・神分・二五三)

【現代語訳】琵琶湖はただの、湖ではない。比叡山薬師如来の池なのだよ。どのような湖か。常楽我淨の風が吹くと、七宝蓮華の波が立つのだよ。

【評】琵琶湖を薬師如来の池と見立てた一首。「神分」(神々を題材とする歌)に分類されているが、神仏習合(日本古来の神信仰と新たに伝来した仏教信仰との融合現象)が進んでいた時代にあっては、神と仏のとの明確な区別はなく、当該今様は、天台山すなわち比叡山の根本中堂の本尊である薬師如来を意識したものになっている。南北朝時代ごろまで延暦寺の記録『山門堂舎記』によれば、延暦七年(七八八)、最澄が比叡山に小堂を立てて、自作の薬師如来を安置したのが始まりであった。
「海」は海洋に限らず、湖沼などを含んで広く水をたたえている場所を指す。
「常楽我淨」は悟りの境地を表し、永遠不変(常)であり、苦を離れて安楽であり(楽)、他に縛られることなく自在であり(我)、煩悩を離れて清浄である(淨)こと。千観(九一八~九八四)作『極楽国弥陀和讃』に「八功徳水池すみて 苦空無我の波唱へ 常楽我淨の風吹きて」とあるのをはじめとして(→一七七)、仏教歌謡の世界では類例が多く、常套的な表現であったことが確認できるが、当該今様は現実世界の広大な琵琶湖を浄土の池と捉えてみせる点で、実感を伴った壮大さ持っていると言えよう。きらいらと輝く波を、七宝(→一〇六)でできた蓮の花びらと見る譬えも美しく、瑠璃(光沢のある青い宝石。ラピスラズリ)から出来ているという薬師如来の浄土(→三四)にいかにもふさわしい。

3月20日(金)

朝から微雨、もう少しで曇り空になるらしい。

「出ただええ、幽霊だあ」、「おッさん、蛇、蝮?」、「そげいなもんじゃねえだア」

糸塚

  散々に甚振(いたぶ)られ倒され無惨なる(いしぶみ)を雁字搦めに緊縛したり

  (ふ)(と)(がらす)嘴細(ほそ)(がらす)も夕べ暗くなれば千ヶ淵の深き森へ帰りぬ

『孟子』万章章句上124 万章問うて曰く、「詩に云ふ、『妻を娶るには之を如何せん。必ず父母に告ぐ』と。(こ)の言を信ぜば、(よろ)しく舜の如くなること莫かるべし。舜の告げずして娶るは、何ぞや」と。孟子曰く、「告ぐれば則ち娶ることを得ず。男女室に居るは、人の大倫(だいりん)なり。(も)し告ぐれば則ち人の大倫を廃し、以て父母を(うら)みん。是を以て告げざるなり」と。万章曰く、「舜の告げずして娶るは、則ち吾既に命を聞くことを得たり。帝の舜に(めあ)はして告げざるは、何ぞや」と。曰く、「帝も亦告ぐれば則ち妻はすことを得ざるを知ればなり」と。

  舜が父母に告げず娶る、尭が娘を父母に告げざるは告げれば妻はすことを得ず

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

万を有漏と知りぬれば 阿鼻の炎も心から 極楽浄土の池水も 心澄みては距てなし
        (法文歌・雑法文歌・二四一)

【現代語訳】すべては煩悩のなせることと知ってみれば、阿鼻叫喚の炎で身を焼かれる苦しみも、わが心のせいなのだ。一方、極楽浄土の池水の清らかな救いも、わが心が澄んでいるならば、すぐ近くにあるのだよ。

【評】地獄の苦しみも極楽の救いも、自分の心ひとつなのだとする法文歌の最終歌。

「有漏」はけがれや迷いを持つことで、「無漏」の反対語。「阿鼻」は「阿鼻地獄」のこと。「無間地獄」とも言い、八大地獄のうち最も下に位置し、(極悪人が堕ちるとされる。

『阿弥陀経』には、極楽の七宝の池に八功徳水(八つのすぐれた美点を持つ水)のあることを説き、『梁塵秘抄』にも「極楽浄土のめでたさは 一つもあだなることぞなき 吹く風立つ波鳥もみな 妙なる法をぞ唱ふなる」(→一七七)とあって、極楽の池の波が尊い法文を唱えているとする把握が見られる。当該今様では、特に阿鼻地獄の熱い炎に対して、極楽の涼しいさわやかな水を対比させたものであろう。「水」からは「澄む」の語が容易に連想されるため、「心澄みては」の句とのつながりも自然である。

3月19日(木)

朝は雨がちだが昼頃には晴れ間があり、暖かかった。

はんけち

  細やかなかやつり草に縁どられその片端に赤蜻蛉二つ

あれあれ見たか/あれ見たか/二つ蜻蛉が草の葉に/かやつり草に宿をかり……

  初路の死。あやまったとは思ひしがあはれなりけり清らかにして

  盂蘭盆の夜が更け初路の墓の前あはれ陰々と鬼気迫るもの

『孟子』万章章句上123-2 帝、其の子九男(きうだん)二女(にじよ)をして、百官・(ぎう)(やう)倉廩(そうりん)を備へ、以て舜に(けん)(ぼ)の中に(つか)へしむ。天下の士、之に就く者多し。帝将に天下を(じき)ゐて、之を遷さんとす。父母に順はれざるが為に、窮人の帰する所無きが如し。天下の士之を悦ぶは、人の欲する所なり。而も以て憂ひを解くに足らず。好色は人の欲する所なり。

帝の二女を妻とすれども、而も以て憂ひを解くに足らず。富は人の欲する所なり。富天下を有てども、而も以て憂ひを解くに足らず。貴きは人の欲する所なり。貴きこと天子と為れども、而も以て憂ひを解くに足らず。人之を悦び、好色・富貴あるも、以て憂ひを解くに足る者無し。(ただ)父母に順はるれば、以て憂ひを解く可し。人少ければ則ち父母を慕ひ、好色を知れば則ち少艾(せいがい)を慕ひ妻子あれば則ち妻子を慕ひ、仕ふれば則ち君を慕ひ、君に得ざれば則ち熱中す。大孝は終身父母を慕ふ。五十にして慕ふ者は、予大舜に於て之を見る」と。

大孝は終身父母を慕ふ。五十にして慕ふもの大舜を於て知らず

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに 万の仏に疎まれて 後生わが身をいかにせん
 (法文歌・雑法文歌・二四〇)

【現代語訳】はかないこの世を生きていこうとして、海や山で生き物を捉え暮らすうちに、多くの仏に見放されてしまった。来世の自分の身をどうしたらよいのだろう。

【評】生きるために殺生の罪を犯さざるを得ない人の深刻なおののきを歌った一首。『梁塵秘抄』には、「鵜飼」の罪の意識に焦点を当てた今様もある(→三五五・四四〇)。

当該今様では、第三句に表現される多くの仏に見放されてしまったという自己認識が、堕地獄の恐怖をより一層切実なものとしている。

仏に捨てられたことを嘆く今様として、建長六年(一二五四)に成った説話集『古今著聞集』巻八には次のような今様が見える。

過去無数の諸仏にも 捨てられたるをばいかがせん 現在十方の浄土にも 
往来すべき心なし たとひ罪障おもくとも 引接(いんぜふ)したまへ弥陀仏

(過去世の無数の諸仏にも捨てられてしまった身の上をどうしたらよかろう。現在十方の浄土にも往生できるほどの心の修行ができていない。たとえ罪深い私でも、どうぞ来世は極楽へお連れください、阿弥陀仏よ)

仁和寺の覚性法親王に千手という寵童がいたが、新しく参った三河という優れた童におされ、やや影が薄くなってしまった。人に合わせる顔がないと思ったためか、千手は退出して、長い寺に参らなかった。ある日、酒宴が催され、笛や今様が得意であった千手が特に呼び出された。そこで千手が歌ったのが先の今様である。ここでは、「過去無数の諸仏にも 捨てられたる」に、覚性法親王の寵愛が薄れたことを響かせているが、一首全体は、罪深い身が仏に見放されてしまったこと、仏道修行に励むこともなく過ごしてきてしまったこと、それでも阿弥陀仏を唯一の頼りとすること、を歌い、『梁塵秘抄』二四〇番歌と二三五番歌を合わせたような趣になっている。なお当該説話に見られる、仏教的な内容の今様に主人の寵を失った悲しみを込めるという趣向は、『平家物語』の祇王の逸話(→二三二)と重なるもので、両者の何らかの交渉を感じさせる。

3月18日(水)

晴れ。

  辻野とは心中未遂にあらざれど初路同じ時に水に入りたり

  二十(はたち)の日に死の(ふち)に辻野は(こら)へたるに女その夜千ヶ淵に沈む

  身投げせし別嬪さんはいぢめられ死といふも同じ日なりき

『孟子』万章章句上123 (ばん)(しやう)問うて曰く、「『舜、田に往き、旻天(びんてん)に号泣す』と。(なん)(す)れぞ其れ号泣するや」と。孟子曰く、「怨慕(ゑんぼ)すればなり」と。万章曰く、「『父母之を愛すれば、喜んで忘れず。父母之を悪めば、労して怨みず』と。然らば則ち舜は怨みたるか」と。曰く、「長息(ちやうそく)公明(こうめい)(かう)に問うて曰く、『舜の田に往くは、則ち吾既に命を聞くことを得たり。旻天に父母が号泣するは、則ち吾知らざるなり』と。公明高曰く、『是れ(なんじ)の知る所に非ざるなり』と。(か)の孔明高は、孝子の心を以て、(かく)(ごと)(かつ)ならずと為す。『我は力を(つく)して田を耕し、子(た)るの職に共するのみ。父母の我を愛せざるは、我に於て何ぞや』と。

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

(あかつき)静かに寝覚めして 思へば涙ぞ抑え(あ)へぬ はかなくこの世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき
  (法文歌・雑法文歌・二三八)

【現代語訳】夜明けの静けさにふと目覚めて思いにふけると、あふれる涙を抑えられないことだよ。ただいたずらにこの世を過ごしてしまっては、いったいいつ浄土に往生することができようか。

【評】老境にさしかかった人の切実な悲嘆を歌った一首。同想の和讃や和歌は多く、たとえば平安時代末期から鎌倉時代に成立した『空也和讃』に「長夜(ぢやうや)の眠りはひとりさめ (ご)(かう)の夢に驚きて 静かに此の世を観ずれば 僅かに刹那ほどぞかし」(長い闇夜の眠りから覚醒し、夜明け前の夢に目覚めて、静かにこの世に思いめぐらせば、ほんの一瞬に過ぎないものだったよ)とあり、大治三年(一一二八)成立の『菩提心讃』に「此のたびはかなく過ぐしなば いづれの時とか思ふべし」(今この時をむなしく過ごしてしまったなら、一体いつ仏道への心を向けるというのだろうか)と見える。また、寂然(一一一八?~一一八二?)の歌集『唯心房集』の今様に「静かに寝ざめてつくづくと、はかなき此の世を思ふ間に、夜や明け方になりぬらん 賀茂の河原に千鳥鳴く」(静けさにふと目覚めて、つくづくとはかないこの世を思っているうちに夜は明け方になってしまったらしい。賀茂の河原に千鳥が鳴いているよ)がある。」

これらの類例に比べて、当該今様は抑えられぬ涙を歌い、より直接的実感的な嘆きを表現しているとともに、暁という幻想的な時間や静かに流される涙によって、一種の甘美な感傷を潜ませてもいよう。

3月17日(火)

雨ではないが寒い。

お米

  妖艶なる三十路(みそぢ)の女と連れ添ふて燈籠寺へと参り候

  雪国の冬にはあれど小春日和、石段に坐す。ああ提灯、いやどっこい

  就中(なかんづく)、公孫樹は黄にて紅樹、青林。見渡す森は(もみ)(ぢ)を含む

『孟子』離婁章句下122-2 其の妻帰り、其の妾に告げて曰く、「良人なる者は、仰ぎ望みて身を終ふる所なり。今此の若し」と。其の妾と与に、其の良人を(そし)りて、中庭に相泣く。而るに良人は未だ之を知らざるなり。施施(しし)として外従り来り、其の妻妾に(おご)れり。君子(よ)り之を観れば、則ち人の富貴利達を求むる所以の者、其の妻妾羞ぢず。而も相泣かざる者、(ほと)んど(まれ)なり。

  君子より観れば富貴利達を求むるはこの斉人のごとく妻妾相泣く

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし
  (法文歌・雑法文歌・二三五)

【現代語訳】自分はいったい、何をしてこのように年老いたのだろう。考えてみれば本当に悲しいことだよ。今はただ、西方極楽浄土の阿弥陀如来の誓願におすがりしよう。

【評】自分の来し方を振り返り、後悔の思いに沈む哀感に満ちた一首。「われら」の 「ら」は複数を表すのではなく、卑下の気持ちを表す接尾語。仏道修行に励むこともなく無為に過ごしてきた老いの身にとっては、衆生の極楽往生の願いをかなえようという阿弥陀の誓いがただ一つの救いになっているのである。
後白河院の今様の弟子である平康頼が編んだ説話集『宝物集』巻七には次のような話が収められている。
神崎の遊女とねぐろは、仏道に心を向けることもなく、往き来の客に身を任せては日々を過ごしていた。ある男と一緒に西国へ下る旅の途中、海賊に襲われて何か所も斬られ、命が尽きるという時に、西方に向かってこの今様を何度も歌って息絶えた。すると西の方からかすかに音楽が聞こえ、海上に紫雲がたなびいたという。

遊女が死に臨んで、自らの得意芸であった今様をもって阿弥陀如来への信仰心を吐露し、それによって極楽往生を遂げたという説話は、後白河院にも深い感銘を与えたらしく、『梁塵秘抄口伝集』巻一〇の末尾近くに「遊女とねぐろが戦に遭ひて、臨終の刻めに「今様は西方極楽の」とうたひて往生し」と簡略化した形で紹介されている。