1月9日(金)

朝は寒いが、晴れる。けど寒い。

  はんけちの工場につとめる娘さんうららかな朝はかなくなりぬ

  家は焼け、お京の(はら)のお米には(あざ)ありいまも(うつす)り青し

  心中ではないが遠くなり近くそのなる人がまとふかその薄明かり

『孟子』離婁章句上66 孟子曰く、「人恒の言有り。皆曰く、『天下国家』と。天下の本は国に在り。国の本は家に在り。家の本は身に在り」

  一身を治めずにして「天下国家」を論ずることは論外のこと

川本千栄『土屋文明の百首』

野分だつ夕べとなりて吹く風はかへり咲く桜の枝吹きわたる 『少安集』

<秋の激しい野分(台風)の風が吹く夕方となり、吹く風は、季節外れに返り咲きをしている桜の枝を吹きわたる。>

秋風が吹き過ぎ、まもなく返り咲きの花も散ってしまうだろう。だが今はまだ散らずに枝にある。寒々しく寂しい光景だ。実際に見た景色を描いているが、荒い風に吹かれる花が、暗い時代の風に吹かれる名も無い人々に重なって見える。「野分だつ」と古語で重厚に始まり、四句の九音で、風に揺れる枝のように韻律もゆらゆらと揺れる。結句七音で定型通り締めている。

歌よみが幇間の如く成る場合場合を思ひみながらしばらく休む 『少安集』

<歌人が、幇間のようになる幾つかの場合を思い浮かべながら、続けていた選歌をしばらく休憩する。>

「幇間」は「太鼓持ち」で権力者に追従する者の喩えに使われる。今読むと「幇間」の語や「場合場合」と重ねた韻律が面白いが、言論の自由の無いこの時代の歌としてはやや危険な面がある。権力者におもねる歌を作る歌人を批判するだけではない。戦争協力の歌を作る人の中には、心から応援しているのでは無く、ご機嫌を取っているだけの者もいるのだ、と政府や軍のような権力者側に示唆することにもなるからだ。

1月8日(木)

寒いけれど、今日も晴れ。

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫 増補新版』を読む。中沢の折口愛が伝わる。折口にもっと近い所に居て、私には十分には持てなかった折口愛。それが溢れている。特に戦後の神道論の解析、主張が、巧く捉えられていておもしろい。折口は本気だったのだと改めて思う。それが今の神道界には、何一つ実現していないし、反対方向へ動いている。折口論としてよきものである。

  寂しき美しきをみなは花の雲から下りて宙にただよふ

  二十(はたち)の日に死の(ふち)に辻町は(こら)へたるにその夜千ヶ淵に沈みし女

  卑怯未練の若き日恥ぢて辻町糸七けふ燈籠寺に詣で来にけり

『孟子』離婁章句上65 孟子曰く、人を愛して親しまずんば、其の仁に反れ。人を治めて治まらずんば、其の智に反れ。人を礼して答へずんば、其の敬に反れ。行うて得ざる者有れば、皆(これ)を己に反求す。其の身正しければ天下之に帰す。詩に云ふ、『永く(ここ)に命に配し、自ら多福を求む』と。

  詩経に云ふ「永くここに従ひて行動し多福を求む」

川本千栄『土屋文明の百首』

人すてて去りたる炎守りつつ時ありき潮の高くなるまで 『少安集』

<人が捨てて去って行った炎を守りながらしばらくの時間があった、潮の高くなるまで。>

「十二月某日」より。この歌の状況は連作から、次のようなものと分かる。まず海辺の岩の間に誰かが小さな焚き火をしていたが、その人が火を捨てて去った。見ていた自分は近づき、炎を守ってしばらく時を過ごした。その後、潮が高くなっていった、というものだ。実際の風景だろう。冬の海の、暗く荒涼とした浜辺だ。ただの風景というだけでなく、人が捨てた小さな大切なものを、自分が拾って守っていたことの譬喩とも読める。

(そうだろうか。連作といえど一首の完成度がもっと問われていいのではないか。)

もろ人の戦ふ時に戦はず如何にか待たむ新しき世を 『少安集』

<全ての人が戦う時に戦わず、如何に(どのようにして)待つのだろうか、新しい世の中を>    昭和十三年の歌。前年、盧溝橋事件が起こり、日本と中国は日中戦争と呼ばれる戦争に突入した。この歌は、戦わずに待つことはできない、戦うべきだと思いつつ、戦えないならどう待つのかと自問している。戦争の大義に乗り切れない者の逡巡だ。この時期、文明は、短歌に打ち込むのと同様、万葉関係の研究に打ち込んでいる。万葉集の研究こそが自分のするべき戦いだ、という思いが一首の背後にあったのではないか。

1月7日(水)

曇り後、晴れるらしい。

  景色もいいが容子がいいお米に見惚れる提灯屋なり

  お京の墓へ参りし後にもうひとつ参るところ。辻野にはある

  辻野とは心中未遂にはあらざれど同じ時刻に水に入りたり

『孟子』離婁章句上64 孟子曰く、「三代の天下を得るや仁を以てし、其の天下を失ふや不仁を以てす。国の廃興存亡する所以の者も、亦然り。天子不仁なれば、四海を保たず。諸侯不仁なれば、社稷を保たず。卿大夫不仁なれば、宗廟を保たず。士庶人不仁なれば、四体を保たず。今、死亡を悪んで、而も不仁を楽しむは、是れ猶ほ酔ふことを悪んで、而も酒を強ふるがごとし」

  夏・殷・周の三代の始祖よく仁を施せり天下失ふは末帝不仁

川本千栄『土屋文明の百首』

降る雪を鋼条をもて守りたり清しとを見むただに見てすぎなむ吾等は 『六月風』

<降っている雪を鋼条(鉄条網)で囲んで守っていた。それをただ清しいとだけ見よう、ただ見て通り過ぎよう、われら市民は。>

昭和十二年の作。前年に起こった二・二六事件の歌。陸軍の青年将校たちが雪の降る二月二十六日未明、クーデターを起こし、政府の重臣を殺害し、首都の中心部を占拠した。事件の様子を清々しい、清らかと歌うが、それが逆説的に不安や怒りを表わす。もう、一市民にはうかつに物が言えない時代だった。鉄条網に隔てられた向こうを、ただ見て通り過ぎるしかないのだ。

夕光うするる山に手をとりてつつじの花も見えなくなりぬ 『六月風』

<夕方の光が薄れる山で妻の手を取っていた。暗くなってきて周囲のつつじの花も見えなくなった。>

つつじの花が咲く五月、妻を伴って旅行に行った時の歌。夕焼けの光が次第に薄れていくという山という大きな風景と、つつじの咲く花原という小さな風景。その中で手を取って立っている二人。文明四十六歳、妻テル子四十八歳、現在の感覚とは違って、老いを意識する年齢だ。薄れていく夕光に、老いていく自分と妻が重なる。若き日の相聞歌に見られた抒情性を、文明がまだ内に秘めていたことが分かる歌だ。

1月6日(火)

晴れ。寒い。

  (なやま)しく優しきお米に提灯の黒塗りの柄をぷいと差し出す

  十町三方金沢城下の往来に行く人来る人皆見ゆるかな

  就中(なかんづく)、公孫樹は黄にて紅樹、青林、見渡す森は(もみ)(ぢ)を含む

『孟子』離婁章句上63 孟子曰く、「規矩は方員の至りなり。聖人は人倫の至りなり。

君為らんと欲せば君の道を尽し、臣為らんと欲せば臣の道を尽す。二者皆堯舜に法るのみ。舜の堯に事ふる所以を以て君に事へざるは、其の君を敬せざる者なり。堯の民を治むる所以を以て民を治めざるは、其の民に賊する者なり。孔子曰く、『道は二つ、仁と不仁とのみ』と。其の民を暴すること甚しければ、則ち身弑せられ国亡ぶ。甚しからざれば、則ち身危ふく国削らる。之を名づけて幽厲(いうれい)と曰ふ。孝子慈孫と雖も、百世改むること能はざるなり。詩に云ふ、『殷鑒(いんかん)遠からず、(か)(こう)の世に在り』と。此の謂なり」

  孔子曰く道は二つ、仁と不仁のみこれ守らねば国は滅びぬ

川本千栄『土屋文明の百首』

大陸主義民族主義みな語調よかりき呆然として昨夜は聞きたり 『六月風』

<大陸主義も民族主義もみな語調が良かった。人がそれを語っているのを、私はただ呆然として昨夜は聞いたのだった。>

昭和十一年の作。演説か、あるいは知人の話を聞かされたのだろう。日本は、「満州国」を「五族協和」などのスローガンを掲げて独立させた後、益々深く大陸を侵略しようとしていた。その人は時局に乗り、熱く威勢良く語っていたのだろう。「語調よかりき」には「語調はいいが、中身が悪い」という思いが込められる。「呆然として」も同意できない気持ちを示している。

幾度も幾度も催促をせしキング原稿料一首一円送り来ぬ 『六月風』

<幾度も幾度も催促を繰り返した結果、雑誌「キング」は原稿料として短歌一首につき一円を送って来た。>

雑誌「キング」は大正末に創刊され、昭和に入って百万部を超える売り上げを誇った人気雑誌だ。一首一円が高いか安いか現代からは推測しにくいが、この当時、大卒初任給が九十円ということだから、高くはないが、不当なまでに安い訳でもないのだろう。ただ何度も催促しないと原稿料が支払われないのは、作家にとって屈辱的なことだ。自分と短歌という文学が軽く見られた怒りが、「幾度も幾度も」の繰り返しに表れている。

1月5日(月)

今日も晴れ。「ばけばけ」が再び始まった。

宮部みゆき『新しい花が咲く ぼんぼん俳句』を読む。宮部の短編十二編。BBK句会の作品、つまりそれぞれ俳句に小説を付けているということだ。おもしろい。怖い、嬉しいのだ。「枯れ向日葵呼んで振り向く奴がいる」「月隠るついさっきまで人だった」「薄闇や苔むす墓石に蜥蜴の子」、どれも面白いのだが、こんな章がいい。続編を期待する。

  従姉(いとこ)のお京のむすめなり。お(よね)に曳かれ、ぶらりふらりと

  とりあへず目指すはお京の墓ならむ盂蘭盆会には燈籠ともす

  雪国の冬にはあれど小春日和、石段に坐す。ああ提灯いやどっこい

『孟子』離婁章句上62-3 (ここ)を以て惟仁者のみ宜しく高位に在るべし。不仁にして高位に或るは、是れ其の悪を衆に(は)するなり。(かみ)道揆(だうき)無く、下に法守無く、朝は道を信ぜず、工は度を信ぜず、君子は義を犯し、小人は刑を犯して、国の存する所の者は幸ひなり。故に曰く、『城郭(まつた)からず、兵甲多からざるは、国の災ひに非ざるなり。田野(ひら)けず、貨財聚まらざるは、国の害に非ざるなり』と。上礼無く、下学無ければ、賊民興り、喪ぶること日無けん。詩に曰く、『天の方に(くつがへ)さんとする、然く泄泄(えいえい)すること無かれ』と。泄泄とは猶ほ沓沓(たふたふ)のごときなり。君に事へて義無く、進退礼無く、言へば則ち先王の道を(そし)る者は、猶ほ沓沓のごときなり。故に曰く、『難きを君に責むる、之を恭と謂ふ。善を陳べ邪を閉づる。是を敬と謂ふ。吾が君能はずとする、之を賊と謂ふ』と」

  ここにただ仁者のみが人君の高位にあらねば国滅ぶのみ

川本千栄『土屋文明の百首』

まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに 『六月風』

<純真な乙女で、ただ信条に素直に行動しただけなのに、警察に捕まり監獄で死んだ。五年ほどの間に。>

「ま」は「乙女」の協調。文明が諏訪高等女学校の校長だった時の卒業生に伊藤千代子という聡明な少女がいた。社会を良くしたいという理想に燃えて、当時非合法だった共産主義活動に従事。逮捕され二十四歳で獄死した。文明自身は共産・社会主義思想と慎重に距離を取りながらも、人がその思想によって犯罪者とされ、最悪の場合は殺されてしまう世に、強い憤りと悲しみを感じている。下句の言い募るような破調に悔しさがこもる。

土屋文明を採用せぬは専門なきためまた喧嘩ばやきためとも言ひ居るらし 『六月風』

<土屋文明を採用しないのは、専門がないためまた喧嘩っ早いためとも言っているらしい>

文明はこの歌の前後の時期、講師として勤めた学校を変えている。自分を採用しない学校側、つまり他人がこう言っているという歌だが、これは自画像そのもので、歌として手渡される自己紹介なのだ。音数は八・七・八・十・八と取ったが、緩急のつけ方で違う韻律でも読める。自分の氏名を詠み込んで、「私」をくっきり描き出す。短気さを平然と認め、大学の哲学科卒だが万葉研究と短歌に打ち込むことへの自尊心も滲ませる。

1月4日(日)

今日も晴れだ。

縷紅新草

  泉鏡花の最後の小説「(る)(こう)新草(しんさう)」こころして読む。幽愁はかなし  

辻野糸七

  おそらくは鏡花の悔いを負うたるか、辻野糸七どこかぎこちなし

お米

  妖艶なる三十路(みそじ)の女と連れ添ふて燈籠寺へと参り候

『孟子』離婁章句上62-2 聖人既に目の力を(つく)し、之に継ぐに規矩準縄以てす。以て方員(はううゑん)(へい)(ちよく)を為すこと、用ふるに(た)ふ可からず。既に耳の力を竭し、之に継ぐに六律を以てす。五音を正すこと、用ふるに勝ふ可からず。既に心思を竭し、之に継ぐ人を忍びざる政を以てす。而して仁天下を覆ふ。故に曰く、『高きを為すには必ず丘陵に因り、(ひく)きを為すには必ず川沢(せんたく)に因る』と。政を為すに先王の道に因らずんば、智と謂ふ可けんや。

  政をするに先王の道によらざればそれでは智者とは言へず

川本千栄『土屋文明の百首』

庭石のかわきて荒るる園みれば物のほろぶる人よりもはやし 『六月風』

〈庭に置かれていた石も乾いて荒れている園を見ると、物が滅びるのは人間が滅びるより早いと分かる。〉 

ここで歌われる園、「(き)下川(ねがわ)梅園」は勝海舟の元別荘で、文明の師、伊藤佐千夫も歌にしている。荒れた梅園では、梅の木も松の木も枯れ果てている。石さえも乾いて元の梅園の情緒はどこにも無い。場所も物も、人の生よりも短い間に滅びてしまった。

実景を克明に写生しながら、索漠とした思いが滲む。一般的には、人より物の命の方が長いと考えられがちだが、この下句はその逆を断言して、どちらも空しく早く滅ぶと暗示する。

一瞬に移る戦機を或る者は見或る者は見ずしてこと定りぬ 『六月風』

<戦場において一瞬で移る勝つ機会を、ある者は見るが、ある者は見ないため、勝敗が定まった。(見た者が勝ったのだ。)>    

文明は時間がある時はよく戦史を読んでいたようだ。他の歌に秀吉、家康などとあるから戦国時代が舞台のものだろう。過去の時代の戦記を読みながら、その頃大陸で拡大している戦線にも考えが及んでいたはずだ。また、この歌の内容は、戦争だけでなく、読む者の人生におけるチャンスにも当てはまるだろう。どちらも戦機を見なければ、敗れるしかないのだ。

1月3日(土)

快晴。

  年をとれば我慢の限度が緩くなる日々のニュースに声出して怒る

  夜の内の譫言ふえて怒りたり。妻に揺すられ情けなきなり

  正月はもの申すべし。ぐずぐずと攻撃止めぬはをかしくないか

『孟子』離婁章句上62 孟子曰く、「離婁(りろう)の明、公輸子(こうゆし)の巧も、規矩を以てせざれば、方員(はうゑん)を成すこと能はず。師曠(しくわう)の聡も、(りく)(りつ)を以てせざれば、五音(ごいん)を正すこと能はず。堯舜の道も、仁政を以てせざれば、天下を平治(へいち)すること能はず。今、仁心仁聞有りて、而も民其の(たく)(かうむ)らず、後世に(のつと)る可からざる者は、先王の道を行はざればなり。故に曰く、『(と)(ぜん)は以て政を為すに足らず。徒法(とはふ)は以て自ら行はるること能はず』と。詩に云ふ、『(あやま)らず忘れず、旧章に(したが)ひ由る』と。先王の法に(したが)ひて(あやま)つ者は、未だ之れ有らざるなり。

  先王の道を知らねば平治せず誤まらず忘れず旧章にしたがへ

川本千栄『土屋文明の百首』

蘭会場いでつつ思ふ富むころには性慾衰へてゆく人々など 『山谷集』

<蘭展覧会の会場を出ながら、裕福になる頃には性欲が衰えてゆく人々のことなどを思う。>

草木好きの文明にとって、蘭は特別に好きな花だった。蘭会場に入り蘭を見ていると、ある裕福そうな老人も蘭を見ている。その老人の顔には蘭に対する物欲が見えた。尊会場を出ながら、裕福になる頃には性欲が衰えてゆく人々のことを考える。年を取ったからか、富に満足して動物としての活力が減退したからか。「性慾」というあまり短歌に使われなかった言葉を、美しい花に対する物欲と対比させて歌っている。

吾が一生悔ゆといはなくに子供のため或は思ふ異れる道を 『六月風』

<私のこれまでの人生を後悔するとは言わないが、子供を育てるためには、或いは違う道があったのではないかと思う。>

若い頃は教育に打ち込んだが、その意を遂げられず、職を捨てた。時間講師で生計を立てつつ、文学者として生きてきた。戦争の時代に生きて耐え忍ぶ生を選びながら、文学への思いは守り抜いた。そこに後悔は無い。けれども四人の子供のことを考えると、もっと経済的に安定した職に就くべきでなかったかとも思う。文学か生活か、多くの文学者を襲う迷いだ。