7月8日(水)

今日は、晴れのようです。

雨ふればむ砂地、穴あるたまり、雨だまり、よろけて通るL字型公園

児ら遊ぶ遊具もあれば一人、二人滑り台をすべる声をあげつつ

欅樹の下かげに籠る子らもゐる一人飛びだし次いで二人目

『孟子』尽心章句上189 孟子曰く、「の民は、たり。王者の民は、たり。之を殺すも怨みず、之を利するもとせず。民日に善に遷りて、而も之を為す者を知らず。夫れ君子の過ぐる所の者はし、存する所の者はなり。、天地とを同じうす。豈之をすと曰はんや」

王者の徳は自然なり目立つこともなければ民ものんびり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

奥山にしばひく音の聞こゆるは 天稚御子の召す音ぞよ 召す音ぞよ (二句神歌・五六一)

【現代語訳】奥山にしきりに弾奏する楽の音が聞こえるのは、天稚御子がお弾きになる音だよ。お弾きみなる音だよ。

【評】音楽の神としての天稚御子説話を背景にした一首。

「しばひく」はしばしば(頻りに)弾くの意であろう。「しば」は本来副詞であるが、「しば立つ」「しば見る」「しば鳴く」など接頭語のように動詞に付いて用いられた。「柴引く」と読む説もあるが、「柴を引く者」が比喩として殊更に取り上げられるのはやや不審であるし、「柴」を「折る」「刈る」という用例は多いが、柴を「引く」というのは一般的な表現とは言い難い。

「召す者」は、原本「みすおと」を「御簾音」として、天稚御子が天降る時に聞こえる御簾の音とする説もある。『梁塵秘抄口伝抄』巻一〇には、熊野詣の折に神前で今様を歌うと、御簾が動いて御正体の鏡が鳴り、長い間振動していたことが記される。神の霊験の表れとして神殿の御簾が動いて音をたてることは大いに有り得るが、当該今様の場合、場所は「奥山」であるし、御簾音は神の降臨者の音として珍しくないということになれば、聞こえてくる「音」を、他のいずれの神でもない音楽神としての天稚御子がたてる音だと判断している当該今様において、取り上げられるにあまりふさわしいものではないだろう。母音のiとeの交替はしばしば見られ、『梁塵秘抄』にも、市場の呼び声として「木や召す」「炭や召す」の例(三八九)がある。

天稚御子は、天禄から長徳(九七〇~九九九)頃に成ったとされる『うつほ物語』俊蔭に登場し、俊蔭のために天降って三十の琴を造り与えたという。さらに天女が天降ってその琴に漆を塗り、織姫に琴の絃をすげさせた。俊蔭がその琴を与えられたのは、木を倒す斧を頼りに三年間尋ね回って辿りついた険しい山の中であった。天稚御子の天降る場所として「奥山」を提示する当該今様とも通い合う。また延久から永保元年(一〇六九~一〇八一)頃に成ったとされる『狭衣物語』巻一では、主人公の狭衣中将が諸芸にすぐれ、特に音楽に堪能であることを評して「天稚御子の天降りたまへるにや。今日天の羽衣迎へきこえたまはむ」(天稚御子が仮にこの世に現われなさったのか。今日にでも天人がお迎えに来られるかもしれない)とする。また、帝の御前で笛を吹いた時には、そのあまりの素晴らしさに天稚御子が天降り、狭衣中将を天界に連れ去ろうとしたという。人々の前に姿を表した天稚御子は、髪をみずからに結ったかわいらしい童姿であった。

さて、こ天稚御子との関連を説かれる神に『古事記』『日本書紀』に登場する天若日子(『日本書紀』では天稚彦)がいる。この天若日子は、天孫邇邇芸命の降臨に先立って高天原から地上に派遣された。しかし、地上で結婚した天若日子は八年もの間戻らず、しかも事情を尋ねるために天上から遣わされた雉を射殺す。怒った天上の紙が雉の射られた矢を投げ返すと、天若日子の胸に当って死んでしまう。天降り、反逆する神として描かれているのである。この神話には音楽神としての性格は見えず、当該今様で歌われている音楽に関わる天稚御子は、『うつほ物語』や『狭衣物語』で語られた後は、表舞台から姿を消してしまう。まさに平安時代後期に脚光浴びた今様(当世風)の流行の神だったと言えるのではないだろうか。

室町時代に下ると、蛇の姿で天上から地上の女に求婚するというお伽草紙『天稚彦草紙』(『七夕』とも)の主人公として、天稚彦の神が登場する。娘と契って昇天した天稚彦を追って、娘は天界の星々を尋ね回り、やがて天稚彦再会とするが、天稚彦の父に妨げられる。いくつかの試練を受けて、二人は織姫星・牽牛星となり一年に一度だけ逢うことを許された。お伽草紙の主人公は、蛇身であり、海竜王・牽牛星とも一体化していくもので、記紀の神とは全く異なる。音楽神の側面も持っていないが、『うつほ物語』で天若御子の作った琴に織姫が絃を張ったというところには、七夕説話との接点が窺われる。後世にも名前だけは伝わっていく天稚御子の、音楽神としての性格は平安時代後期に注目されていたものであり、その性格を背景に、天稚御子の奏楽の音色を謎解きの形でおもしろく表現したのが当該今様だったのである。

7月7日(火)

今日も曇りだね。振らないといいな。

山膚は夏の濃みどり薄雲の掛りて美麗なりさがみの山容

大剣をかつぎて上る大山の頂きの社に奉納したりき

もう疾うに登ることなど諦めて遠く見ているばかりの山頂

『孟子』尽心章句上188 孟子曰く、「を以て民を使へば、労すと雖も怨みず。を以て民を殺せば、死すと雖も殺す物を怨みず」

すべては民のためなり。仕事をするも死刑にするも怨むことなし

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

このはがる巫女よ にをだにかかいで ゆゆしう憑き語る これを見たまへ (二句神歌・五六〇)

【現代語訳】この巫女は風変わりな巫女だよ。帷子を着て、あられもない姿で後ろを取り繕いもせず、恐ろしいほどの様子で神懸りして語るよ。これを御覧よ。

【評】二句神歌神社歌の後に、再び標題のない歌が十一首置かれる。当該今様はその中の一首で神懸りをした巫女の様子を生き生きと描く。

「帷子」は裏をつけない衣。「かかいで」は「かがはで」「かがらで」の誤写と見て、「破れも繕わないで」の意とする説、「とじつけないで」の意とする説、「くくりあげないで、尻からげをしないで」の意とする説、「尻さえ取り繕わず、丸出しで」の意とする説がある。いずれにしても乱れた姿を表している点では動かないが、一番目の説は、後ろをとじつけないという状態がどのような形になるのかがわかりにくく、また、二番目の言う尻からげをしないことは、帷子と同じ汗取の単である汗衫は裾を長く引くのが晴の姿であることを考えると、特に乱れた姿とも言えない。したがってここでは三番目の説に従った。

応長元年(一三一一)頃描かれた「松崎天神延喜絵」巻四には、上半身には何も着けず緋袴をはいた物狂いの女が錫杖を振り鳴らす様子が描かれている。この女は巫女ではないが、神懸りにせよ。物狂いにせよ、正気を失いあられもない姿となった女に対する人々の好奇心は並々ならぬものがあったであろう。

7月6日(月)

曇りだね。

台風8号、7号が近づく

台風が近づく時のときめきを誰にも知られずこの愉しさは

相米真二監督の「台風ゲーム」われは好みき

たうたつに河合奈保子とつぶやけり主人公の男の子は

『孟子』尽心章句上187 孟子曰く、「之にするに・の家を以てするも、し其の自ら視ることにたらば、則ち人に過ぐること遠し」

韓氏や魏氏の如く富貴を与へられても価値を認めず変はらず足らぬ気分なれば優れたる人

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

住吉は南客殿中 思ひかけがねはづしぞなき (二句神歌・神社歌・住吉・五四一)

【現代語訳】住吉大社では南の客殿で巫女に思いを縣けたれど、女は中遣戸の懸け金をはずした様子もないことだよ。

【評】住吉大社の巫女との恋の駆け引きを歌う一首。

「住吉」は大阪市住吉区にある住吉大社。境内には南北二つの客殿があった。「客殿」は客に応対するための殿舎。「中遣戸」は殿舎の間の引き戸と考えられるが、隣家との隔ての垣根を意味する。

「中垣」が、仲を隔てさえぎるものの譬えに用いられるのと同じような趣が感じられよう。室町時代末の流行歌謡・小歌に「生らぬあだ花 真白に見えて 憂き中垣の夕顔や(『閑吟集』)」(実のならないあだ花が真白に咲いているのが見えるだけ。二人の仲を隔てるつれない中垣の夕顔の花よ)と見える。「思ひかけがね」は「思ひを懸ける」の意で「懸け金」(戸締りの道具)につなげている。

『梁塵秘抄』には、

山のめは桜人 海の調めは波の音 まだ島巡るよな が集ひは中の宮 遣戸はここぞかし (三一三)

(山から聞こえる調べは催馬楽の「桜人」。海から聞こえる調べは波の音。また島巡りをすることだ。巫女が集まっているのは中の宮。立派に飾られた引き戸はここにあるのだよ)

といった一首が見え、厳島神社の社頭風景を歌っているとされるが、遣戸で隔てられた場所に巫女が集まっており、そこに感心の向けられている点は、当該今様と類似している。

7月5日(日)

雨です。曇りです。また雨です。

アスファルトの道にもところどころ傾斜あり避けることもできず

もともとに凸凹のある道にして棒のやうな足運びがたし

アスファルトの亀裂に小さな緑草定点観測のごとく写せり

『孟子』尽心章句上186 孟子曰く、「文王を待ちて而る後に興る者は、なり。の豪傑の士のきは、文王無しと雖も、猶ほ興る」

人並み優れた豪傑の士などは強化なくともみづから興起す

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

稲荷なる三つ群れ烏あはれなり 昼はれて夜はひとり寝 (二句神歌・神社歌・稲荷・五一四)

【現代語訳】稲荷三社の境内に棲む三つの群れ烏はかわいそうだよ。昼は仲良く戯れていても、夜は寂しく独り寝るのだよ。

【評】稲荷は京都市伏見区にある伏見稲荷大社。『延喜式』神明帳に「山城国紀伊郡稲荷神社三座」と見え、上・中・下の三社からなる。稲荷三社周辺の遊女たちを烏に譬えて歌った一首。遊女を烏に譬えることは三八八番歌にも見える。神社歌とはいいながら、信仰心を表出する歌ばかりではなく、色恋にまつわる歌が収められているところが興味深い。稲荷の神社歌にはことにその傾向が強く、失恋を神に恨んだり、八つ当たりしたりするような歌もとられている。

稲荷山社の数を人問はば つれなき人をみつと答へよ (五一五)

(稲荷山でお社の数を人が問うたならば、無情な人を「見つ」―「三つ」と答えなさいよ)

われといへば稲荷の神もつらきかな 人のためとは思はざりしを (五二〇)

(私に関して言えば、稲荷の神も酷いことなさるなあ。他人のためと思って祈ってきたわけではないのに)

五一五番歌は『拾遺和歌集』雑恋所収、平貞文(?~九二三)の詠。詞書によると、稲荷詣で出会った女にものを言いかけたが何の答もまかったので詠んだ歌という。また、五二〇番歌は『拾遺和歌集』雑恋所収、藤原長能(九四九?~一〇一二?)の詠。詞書によると、稲荷詣で見初めた女を他の男にとられてしまったために詠んだ歌という。

こうした恋愛に関わる歌が多いことは、稲荷の神の性格とも関わるものと思われる。

鎌倉時代中末期に成立したと考えられる『稲荷記』によると、稲荷の神は「御自称は愛法神」であり、「愛と云ひ、福と云ひ、日本無双の霊神」であって、男女の仲をとりもつ神として古くから信仰を集めていたらしい。藤原明衡(九八九?~一〇六六)著『新猿楽記』には、右衛門尉の第一の妻が夫の愛情を得るためにさまざまな神に祈りを捧げていることが記されるが、その中に「野干坂伊賀専の男祭」「稲荷山阿小町の愛法」に参加していることが見える。伊賀専も阿小町も稲荷系の神であるが、これらが愛欲の神であることは注目される。これに対応するように、鎌倉初期写『吒枳尼天祭文』(配偶者を求める男女に対しその成就を願うもの)には、願いをかける対象の神として「稲荷」「阿小町」もあげられている。当然予想されることではあるが、稲荷の持つ愛法神としての性格が、神歌の内容にも色濃く反映していることが確認できよう。

「睦る」は、親しんでまつわりつく意。「六つ」をかけ、「ひとり寝」の「一」とあわせて、三・六・一という数字の対比でもおもしろみを出している。

7月4日(土)

まあ、曇りだね。妻が友に会いに上田へ。

公園の砂地、石ころ道、そしてアスファルトそれぞれに困ず足弱なれば

いろいろに歩いてはみるが棒のやうにつっぱる歩みなかなかに辛き

周囲には夏のみどりの楽しげな木々あれど過ぎてゆくばかりなり

『孟子』告子章句上185 孟子、に謂ひて曰く、「子、を好むか。吾、子に遊をげん。人之を知るも亦たり。人知らざるも亦囂囂たり」と。曰く、「如何なればに以て囂囂たる可き」と。曰く、「徳をび義を楽しめば、則ち以て囂囂たる可し。故に士は窮しても義を失はず、達しても道を離れず。窮しても義を失はず、故に士はを。達しても道を離れず、故に民は望みを失はず。古の人は、志を得れば、民に加はり、志を得ざれば、身を修めて世にる。窮すれば則ち独り其の身をくし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす」と。

逆境にあれば独り身を修め、栄達すれば天下に善を導くとこそ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

はいづくか石清水 の若松の枝 (二句神歌・神社歌・石清水・四九五)

【現代語訳】山鳩はどこがねぐらなのだろう、それは石清水八幡宮の若松の枝だよ。

【評】二句神歌の中心をなすのは神社歌で、畿内の主要な神社と安芸国(現在の広島県西半部)の厳島神社に関する神歌が集められている。ほとんどが五・七・五・七・七の短歌体。当該今様は神社歌の冒頭に置かれている。

石清水八幡宮は京都府八幡市の男山にある神社で応神天皇を祀る。元亨二年(一三二二)に成立した伝記『元亨釈書』五に「国俗、鳩を呼びて八幡の使鳥と為す」とあって、鳩が神の使いとされたことがわかる。「とぐら」は鳥のねぐら。

石清水八幡宮の神の使いとされた鳩を、めでたい若松の枝と取り合わせた爽やかな一首。石清水の名は社前に清水が湧き出たことに由来するとされ、当該今様の次に置かれた

ここにしも湧きて出でけむ石清水 神の心を汲みて知らばや (四九六)

(この土地にこそ湧き出たであろう石清水よ、神の心をこの水を汲んで知りたいものだよ)

は清冽な泉の印象を歌っている(『後拾遺和歌集』神祇に増基法師の歌として載る)。

このような、神社の名の由来となった清水と緑の松とをあわせると、当該今様の持つ清新なすがすがしさがさらに増すであろう。

鎌倉時代末期成立、八幡神の神徳を述べた『八幡愚童訓』(続群書類従所収)に下句を「八幡の峰の榊葉の枝」として載る。その他、各地の伝承歌謡に類歌が見られ、広い伝播が知られる。

7月3日(金)

朝は降っていたが、やがて曇り。だが、明るい。

安部公房作『けものたちは故郷をめざす』を読む。敗戦後の満州が舞台なのであろうが、そんなことはどうでもいい。数千里の砂漠地帯を死にそうになって、日本に帰ることを願う主人公。考えられる以上の苦痛、苦労。『砂の女』の苦しみだ。最後の方ではじめて海を知る、暗黒の海を見る。そして砂漠と比較して「荒野の波は、野獣の爪だ。それにくらべると海の波なんて女の髪の毛のようなものだ。」などと思う。すさまじい体験をしたからこそ言えることばだ。主人公は船を下りれない。日本に着きながら下船して、故郷へ帰還できるのか。この主人公は若い。安部公房の出自とかかわっているのであろうが、苛酷な体験を経て、どうなるのか。おそらく……

この道は海への道とおもへども足弱われには行くすべもなし

行くべきは四十代か五十代か六十代には三度目のやまひ

はつなつのみどりがわれを誘けども一人では無理だ妻を携へ

『孟子』尽心章句上184 孟子曰く、「古の賢王は、善を好んで勢ひを忘る。古の賢士、何ぞ独り然らざらんや。其の道を楽しみて人の勢ひを忘る。故に王公も敬を致し礼を尽さずんば、則ち之を見るを得ず。見ることすら且つ猶ほするを得ず、而るを況にや得て之を臣とするをや」

王公といへども賢者には敬意と礼儀を尽くさねばたびた会うもかなはず

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

さ夜更けてこそ歩くなれ や南無や (二句神歌・四九一)

【現代語訳】夜が更けて鬼たちが歩き回ることだ。南無や帰依仏。南無や帰依法。

【評】百鬼夜行に出会った時の呪文をそのまま今様に仕立てた一首。さまざまな妖怪が、夜間に列をなして出歩く日は、陰陽道の説によって月ごとに決まっており、人々は外出を避ける習いであったが、百鬼夜行に出会った話は多く伝えられている。たとえば『大鏡』師輔伝には、師輔が夜更けに内裏から帰宅する途中、百鬼夜行に会い、尊勝陀羅尼を唱えることで難を逃れた話が見える。お供の者たちには、鬼の姿は全く見えなかったという。『今昔物語集』巻一四-四二話では藤原常行が女のもとに通う途中、百鬼夜行に会い、鬼にとらえられるところであったが、乳母が着物の襟首に縫い込んでおいた尊勝陀羅尼のお陰で助かったとされる。また、鎌倉時代前半に成立した『宇治拾遺物語』一七話「修行者、百鬼夜行に逢ふこと」には、摂津国(現在の大阪府北部と兵庫県東部)で百鬼夜行に会った修行者が不動明王を念ずる呪文のお陰で助かった話が見える。鬼たちは手に手に火をともし、百人ほどの集団で、一つ目の鬼、角の生えた鬼など、この上なく恐ろしい姿であったという。

これらの話では、尊勝陀羅尼や不動の呪によって鬼難を逃れたことになっているが、当該今様で唱えられているのは「南無帰依仏」「南無帰依法」という呪文である。「南無帰依僧」と合わせて仏・法・僧の三宝に帰依する(自己の心身を投げ出して信奉する)意を示す。「南無」は梵語の音を写したもので、帰命、敬礼と訳す。心から従い敬う意で、「帰依」と意味が重複する。『今昔物語集』巻四-二〇話には、鬼に出会ったインドの男が、妻に教えられたとおり、「南無帰依仏、南無帰依法。南無帰依僧」と唱えると、鬼は「この法文を聞いたお陰で自分も鬼の身か天界に生まれ変われる」とかえって喜び、男を助けて、無事に家に送り返した話が見える。

物の怪や鬼への恐怖心が人々を深く支配していた時代、当該今様は、呪文そのものの力に支えられて、強い響きを有しているように感じられる。

7月2日(木)

雨だ、雨。昼過ぎには曇るという。

さて、どこへ赴くといふのかどんよりと重き曇りの下ゆく鷺は

白鷺の群れしづかに水を張る田居に降りくる菩薩のごとく

茶を喫し九階のベランダに五羽の鷺の群れ見つついづこへ飛びゆかむかな

『孟子』尽心章句上183 孟子曰く、「の人に於けるや、大なり。のを為す者は、恥を用ふる所無し。人にかざることを恥ぢずんば、何ぞ人に若くことか有らん」

孟子言う「羞恥心こそ大切なもの。羞恥心なくばどうしやうもなし」

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

が腰に差いたる 思はむ人の腰に差させむ (二句神歌・四八三)

【現代語訳】山長が腰に差した葛の鞭恋しい方の腰に差させたいものよ。

【評】恋人の凛々しい姿を思い描く女の恋の歌。山長という地位につけたいという思いも込められていよう。「山長」は山の番人の頭。「差いたる」は「差したる」の音便。「葛鞭」はツヅラフジなど、丈夫な蔓性の植物で作った鞭。「ぶち」は「むち」に同じ。盗人をこらしめるためなどに用いる。『今昔物語集』巻二三-一七話には「熊葛の練鞭」が見える。ある力の強い女が、女盗賊をこらしめるために、この鞭をふるったところ、打つたびにその鞭にえぐられた盗賊の肉がついたという。「葛鞭」はこうした強さの象徴であった。聟に着せる美しい着物をあれこれ考える今様(三五八)からは、優美な貴公子愛するたおやな女性が浮かび上がるが、当該今様は、強くたくましい男に思いを寄せる素朴な田舎娘を想起させ、恋人の魅力的な姿を思い描く心情は共通しながら、優美さと強さの好対照をなしている。