8月31日(日)

暑い、もう30℃だ。また40℃になるところがある。

膿爛相

  山墓に捨てられて腐る。からうじてかたちたもつか醜きばかり

  ほぼ腐り目玉も口も爛れたりああみにくきよ見るにあたはず

  ほんたうはこの世にありし怨みごといひたけれどもすべあらざらむ

『孟子』梁恵王章句下11-4 景公び、大いに国を戒め、出でてに舎す。是に於て始めてし、足らざるを補ふ。太師を召して曰く、『我が為に君臣相説ぶの楽を作れ』と。蓋し・、是なり。其の詩に曰く、『君を畜する何ぞめん』と。君を畜すとは君をするなり」と。

  君を畜するは何ぞ尤めんこれすなはち君を好みする

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 防人

霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍にわれは来にしを (同・四三七〇)

「霰降り」は枕詞である。(略)「鹿島の神」は鹿島神宮で、祭神は武甕槌命。鹿島神宮の経津主命とともに軍神として古代より崇敬されている。「皇御軍」は天皇の軍隊というので敬語を冠した。この歌は常陸那珂郡の上丁、大舎人部千文という人の作である。一首の意は、「武神にまします鹿島の大神に武運をお祈りしながら私は天皇の軍隊に加わってきた」というのである。この「霰降り」は枕詞であっても、あられ降る季節を、またあられ降る中をと受け取ってもかまわない。(略)この歌もさっぱりして気持ちよいうただ。戦争中愛国百人一首中に選ばれたりしたので、あるいはそれにこだわる人があるかもしれぬが、歌に罪はない。「来にしを」と「を」の助辞に感嘆の意をこめている。自身感奮しているのである。作者の純粋な心を思わねばならない。この防人はもう一首作っている。

筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹そ昼も愛しけ (同・四三六八)

「サユリ」を「サユル」「よとこ」を「ユトコ」となまっている。筑波山に咲いている百合の花のように、夜床の中でもいとしい妹は、むろん昼間も可愛いい、というのだが、防人の作ではあっても防人の心に似合わない。歌そのものはなかなかの佳作で、「霰降り」の歌よりはすぐれているが、これはまったく東歌と同じだ。それでも家持はこだわらなかった。歌さえすぐれていれば遠慮せずに採った。

8月30日(土)

また本日は猛烈に暑くなる。40度を超すところもあるらしい。

血塗相

  九竅より血や体液の沁みいづるくるところに沁みだす悪臭

  わがより溢れだすもの地にたまり、臭ふぞ。そこの沁みたるところ

  悪臭は死にたるわれの臭ひなり。この地の臭ふ、逃れがたかり

『孟子』梁恵王章句下11-3 今や然らず。師行きて糧食す。飢うる者ははず、労する者ははず。睊睊としてり、民乃ちをす。命を方ち民を虐げ、飲食流るるが若く、流連荒亡、諸侯も憂ひと為る。流れに従ひて下り、而して反るを忘る、之を流と謂ふ。流れに従ひて上り、而して反るを忘る、之を連と謂ふ。獣に従ひてく無き、之を亡と謂ふ。酒を楽しみて厭く無き、之を亡と謂ふ。先王には流連の楽しみ、荒亡の行なひ無かりき。惟君の行ふ所のままなり」と。

  先王の行なひと今の通弊といづれを選ぶか王の心しだひなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 防人

大君の命かしこみ磯に触り海原わたる父母を置きて (万葉集巻二十・四三二八)

防人は崎守で、辺境を守る人の義。守備兵と考えてさしつかえない。(略)それら防人の歌は巻七の古歌集の中に、また巻十四の東歌の中に若干まじる程度であるが、巻二十には長短歌あわせて九十余首もあり、一団の防人歌篇をなしている。これは天平勝宝七年に防人の交代があり、その時に家持は兵部小輔の役目から防人を検閲したので、」あわせてそれらの歌を採録したためである。(略)この歌は相模の国の部領使、すなわち防人輸送の役をしていた藤原宿奈麿が集めて進った歌のひとつで、助丁、丈部造人麿という防人の作である。一首の意は、「天皇の命令を畏みたてまつって防人になって行くのだ。あぶない磯のへんを過ぎ、荒浪の海を越えながら、国元にはいとしい父母を残しておいて」というのである。この「大君の命かしこみ」はこの場合やはりなくてはならぬ語だ。少しもうつろなひびきがしない。それを受ける「磯に触り海原わたる」は海路渡航の状を具体的に、またよく単純化して結句の「父母を置きて」に対応する調べよき語となっている。防人の歌は東歌かと見まちがうほどである。なまりの多い語で、ひたすら相聞恋愛の情を歌っている。そういう中で、これはいかにも防人らしい防人の歌として注意せられる。なおこの「海原」を「ウノハラ」というのは集中これひとつである。なかなかよいと私は思っている。

8月29日(金)

朝方少し涼しかったが、30度を越し暑くなる。

肪脹相

  滅びゆくわが肉體の膨満す。わが死の後のみにくきすがた

  身の憂さも忘じはてたる軀なりけり。淫楽に遠し臭骸を抱く

  朝があす遠くに鳴きて膨張するからだ求むるかと

『孟子』梁恵王章句下11-2 、斉の景公、に問うて曰く、『吾、を観し、海につて南し、にらんと欲す。吾何を修めて以て先王の観に比すべきや』と。晏子対へて曰く、『善いかな問や。天子諸侯にくを巡狩と曰ふ。巡狩とは、守る所を巡るなり。諸侯天子に朝するをと曰ふ。述職とは、職とする所を述ぶるなり。事に非ざる者無し。春は耕すを省みて足らざるを補ひ、秋はむるを省みて給らざるを助く。夏の諺に曰く、〈吾が王遊せずんば、吾何を以て休せん。吾が王予せずんば、吾何を以て助からん〉と。一遊一予、諸侯の度と為る。

  昔の聖王は一遊一楽といへども諸侯の手本となるべし

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 佐佐木信綱

西上人長明大人の山ごもりいかなりけむ年のゆふべに思ふ (同)

同じ遺詠の二首目である。「西上人」は西行法師のこと、あがめて上人といった。「長明大人」は鴨長明のこと、あがめて大人といった。西行は法師であるから上人でよいが、長明は純粋な意味で僧とはいえないから大人といった。むろん同じ語を避けるためでもある。「年のゆふべ」は年の暮れ方である。一首の意は「昔の西行法師や鴨長明の山居生活はどんなふうであったのだろうか、年の暮れ方に思われる」というのである。前の歌とはちがうけれど、心のつながりが感じられる。自分も年老いて一人で山荘生活をしているものの、現代文明の恩恵をこうむって何不自由ない生活をしている。けれど西上人や長明大人の時代はちがう。それがどのように住にくかったか

と思いやっているのである。(略)ともに不便な山地に隠遁した人たちであるが、その心と生活を堪えがたいものであっただろうと同情しているのである。むろん西行や長明を慕えばこそであるが、信綱は明治九年数え年五歳の時に、父弘綱から万葉集や西行の歌集「山家集」の暗誦を授けられている。そうして六歳の時に「障子からのぞいて見ればちらちらと雪のふる日に鶯が鳴く」と詠んで、父に賞められている。五、六歳ごろからの西行である。信綱が西行に格別心ひかれて、多くの書をなしたのもいわれなきことではない。七十いくつ、六十いくつでなくなった西行や長明を、九十歳を越えた信綱が、なお五、六歳ごろの心で思いしのんでいる。「年のゆふべに思ふ」が感深い。もう一首は次のように心を安く述べている。

空みどり真ひる日匂ふ日金の山山草原はあたたかならむ

8月28日(木)

今日はほんの少し気温上昇から免れるらしい。それでも33℃。

最近作った『九相詩』から

新詩相

  不覚にもきのふけふとはおもはねど花散る下に死のにほひあり

  われはまだ命存してあるものを定めのゆゑかおとろへたりき

  入相の鐘のひびきを滅びへの報知とぞきく。山くだりきて

『孟子』梁恵王章句下11 斉の宣王 孟子をに見る。王曰く、「賢者も亦此の楽しみ有るか」と。孟子対へて曰く、「有り。人得ざれば、則ち其の上をる。得ずして其の上をる者は、非なり。民のと為りて、民と楽しみを同じうせざる者も、亦非なり。民の楽しみを楽しむ者は、民も亦其の楽しみを楽しむ。民の憂ひを憂ふる者は、民も亦其の憂ひを憂ふ。楽しむに天下を以。てし、憂ふるに天下を以てす。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。

  楽しむも憂ふるも天下とともにといふことは王にならざること未だなし

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 佐佐木信綱

ありがたし今日の一日もわが命めぐみたまへり天と地と人と (佐々木信綱歌集以後)

「ありがたし」と初句で切り、「めぐみたまへり」と四句で切っている。珍しい形ではないが、五句を「天と地と人と」と結んだような歌はめったにない。(略)たとい九音になってもここはたはり「アメとツチとヒトと」と正しく読む方がよい。その方が信綱の心にも、またこの歌の心にもかなうと思われる。

歌意はいうまでもないことだが、「じつにありがたいことである。今日の一日も自分の生命が無事に過ごすことのできたのは、天と地と人との恩恵によるものである」といって、生きて行くことは自分一人の力によるものではないとへりくだっている。

(略)

信綱は一九六三年十一月末、ふとしてひいたかぜがもとで一週間ほどわずらって十二月二日、熱海の山荘でなくなった。三代を生きぬいて数え年九十二歳、歌人としての古今第一の長寿を全うした。これは遺詠として見つかった三首のうちのはじめの歌だが、発病前に作ったのだろう。その一日一日は、この歌に歌われている心そのままに天と地と人とに感謝しながら生きていたのである。けっしてうまい歌ではないだろう。素人の歌かとまちがうほどだが、すでに巧拙を超えている。あらゆる歌を、あらゆる歌の技術を知りつくした人が、今は何ものにも臆するなく、自分の調べ、心の調べそのままに歌ったのである。おのずから心は天地人の間に通じて、このような形の歌になった。だからたれも及ばないのだ。及びつきようがないのである。限りなく丈高い歌で、しみじみとして頭のさがる歌である。

8月27日(水)

今日も猛烈に暑い。ああ、

その四

  目の前の中華料理の店に入り青椒肉絲・酢豚の定食

  二日目は妻が買ひ来し黒ビール、寿司盛合せ山葵を付けて

  キッチンの新調の音を考へて三日ホテルに暮すわれなり

『孟子』梁恵王章句下10-3 書に曰く、『天、下民を降し、之が君を作り、之が師を作る。惟れ曰く、其れ上帝を助けよと。之を四方にす。罪有るも罪無きも、我在り。天下ぞ敢ての志をす有らんや。』と。一人、天下にするは武王、之を恥ず。此れ武王の勇なり。而して武王も亦一たび怒りて、天下の民を安んぜり。今、王も亦一たび怒りて、天下の民を安んぜば、民王の勇を好まざるを恐るるなり」と。

  宣王のひとたび民を安んずるかくあれば民  王の勇を好まぬを恐る

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 沙弥満誓

世間を何に譬へむ朝びらき傍ぎ去にし船の跡なき如し (同巻三・三五一)

「朝びらき」は碇泊していた船が夜が明けていっせいに港を漕ぎ出すことをいう。

その語を借りて世間のことにたとえたのである。一首の意は「この世の中を何にたとえようか、それは朝、港から漕ぎ出して行ってしまった船の、跡に何も残さないと同じようなものだ」というので、これは明らかに仏教的無常感が歌われている。万葉集ではわずかにしか見られぬ仏教思想をいった歌として注目されるが、当時としては新しかったのだろう。新しくても思想的な歌は、よほど力量あるものでもなかなか成功しがたいものだ。たいていもものものは思想だけが浮き立って、形だけのものになりがちだが、この歌はそうではない。やはり「朝びらき」の語があるためだろう。それはその情景をよく知っているからで、それだから「傍ぎ去にし船の跡なき如し」といっても、頭の中で想像しただけではない、具体的なものを人に感じさせるところが出てきたのである。この歌はむろんそうだが、前の綿の歌にしても、万葉集中では、そう目立つわけではないが、やはりこれまでにない新しさが見られる。しかしこれが古今集後の拾遺集に入れられると「朝ぼらけ」以下の語句が次のように改められて、いちおう美しいけれど、弱く力のないものになっている。

世のなかを何にたとへむ朝びらけこぎゆく船のあとの白波

8月26日(火)

今日も無茶苦茶暑い。

その三

  一日目の夜にビナウォークを訪れてカルディにふおやつ三点

  この世ならぬホテルの部屋にこもりをり。煙草の臭ひ気にはしつつ

  禁煙室は満室なりき。わが入る喫煙室はわづかに空きあり

『孟子』梁恵王章句下10-2 王曰く、「大なるかな言や。寡人疾有り、寡人勇を好む」と。対へて曰く、「王請ふ小勇を好むこと無かれ。夫れ剣をし疾視して曰く、『彼んぞ敢て我に当らんや』と。此れを匹夫の勇、一人に敵する者なり。王請ふ之を大にせよ。詩に云ふ、『王赫として斯に怒り、爰に其の旅を整へ、以てにくをめ、以て周のを篤くし、以て天下に対ふ』と。此れ文王の勇なり。文王一たび怒りて、而して天下の民を安んぜり。

  文王に勇ありてひとたび怒れば民平らかなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 沙弥満誓

しらぬひの筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖けく見ゆ (万葉集巻三・三三六)

「しらぬひ」は筑紫の枕詞、筑紫は九州全体の総名であった。「綿」は真綿で絹綿のことである。(略)一首の意は「筑紫の絹綿はかねがねから聞いてはいたが、身につけて着ないうちから、なるほど見ただけでも暖かそうだ」というので、大宰府に収納せられた絹綿を賛美したものと思われる。その心が上の句に感じられるが、下の句「いまだは著ねど暖けく見ゆ」は平凡なようでありながら、心も調子も素直にとおっているので、単純な一首をよく救って、情趣こまやかなものさえ感じさせるのである。

(略)

作者沙弥満誓は、僧でであるが、在俗の時は笠朝臣麿といい、美濃守に任ぜられて木曽路開通に功があり良吏の聞こえ高かった。元明天皇不予のおり、天皇のために僧となって満誓と名のり、のちに筑紫観世音寺造営の長官に任ぜられて九州へ遣わされた。これはその任官中の歌だが、そこでは大宰府の長官大伴旅人と親しくしており、旅人が帰京した時に次の二首を作って贈っている。

まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつ居らむ (同巻四・五七二)

ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には会ふ時ありけり (同・五七三)

ともになかなかの佳品だが、これに対して旅人の和えたのか次の二首である。

此処にして筑紫や何処白雲のたなびく山の方にしあるらし (同・五七四)

草香江の入江に求食る葦鶴のあなたづたづし友無しにして (同・五七五)

やはりすぐれた歌だが、あとの歌の「友無しにして」など、その友情を思いしのばせる。