暑い、もう30℃だ。また40℃になるところがある。
膿爛相
山墓に捨てられて腐る。からうじてかたちたもつか醜きばかり
ほぼ腐り目玉も口も爛れたりああみにくきよ見るにあたはず
ほんたうはこの世にありし怨みごといひたけれどもすべあらざらむ
『孟子』梁恵王章句下11-4 景公び、大いに国を戒め、出でてに舎す。是に於て始めてし、足らざるを補ふ。太師を召して曰く、『我が為に君臣相説ぶの楽を作れ』と。蓋し・、是なり。其の詩に曰く、『君を畜する何ぞめん』と。君を畜すとは君をするなり」と。
君を畜するは何ぞ尤めんこれすなはち君を好みする
前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 防人
霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍にわれは来にしを (同・四三七〇)
「霰降り」は枕詞である。(略)「鹿島の神」は鹿島神宮で、祭神は武甕槌命。鹿島神宮の経津主命とともに軍神として古代より崇敬されている。「皇御軍」は天皇の軍隊というので敬語を冠した。この歌は常陸那珂郡の上丁、大舎人部千文という人の作である。一首の意は、「武神にまします鹿島の大神に武運をお祈りしながら私は天皇の軍隊に加わってきた」というのである。この「霰降り」は枕詞であっても、あられ降る季節を、またあられ降る中をと受け取ってもかまわない。(略)この歌もさっぱりして気持ちよいうただ。戦争中愛国百人一首中に選ばれたりしたので、あるいはそれにこだわる人があるかもしれぬが、歌に罪はない。「来にしを」と「を」の助辞に感嘆の意をこめている。自身感奮しているのである。作者の純粋な心を思わねばならない。この防人はもう一首作っている。
筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹そ昼も愛しけ (同・四三六八)
「サユリ」を「サユル」「よとこ」を「ユトコ」となまっている。筑波山に咲いている百合の花のように、夜床の中でもいとしい妹は、むろん昼間も可愛いい、というのだが、防人の作ではあっても防人の心に似合わない。歌そのものはなかなかの佳作で、「霰降り」の歌よりはすぐれているが、これはまったく東歌と同じだ。それでも家持はこだわらなかった。歌さえすぐれていれば遠慮せずに採った。