10月16日(木)

朝から雨が降ったり止んだり、今日一日こんなものらしい。

  踏切を電車が通る紺色の相鉄線の長きが通る

  踏切が赤き点滅を繰り返し行先不明の相鉄線が通る

  踏切がしばし音立て自動車の行方をふさぐ通過するまで

『孟子』公孫丑章句29-3 是に由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端まり。

  惻隠、羞悪、辞譲、是非、それぞれに仁・義・礼・智の端なり

林和清『塚本邦雄の百首』

生蚫咽喉すべりつつわれ生きて「あゝ、人目を避けた數々の寶石」 『波瀾』

「ああ、人目を避けた数々の宝石、――はや眼ある様々の花。」は、小林秀雄訳、アルチュール・ランボー『大洪水後』(一九七〇)の一節である。最近ではやや平明な訳で読まれていることも多いが、やはり塚本はこの訳の文学性高い日本語表現を好んでいたに違いない。

アワビの刺身を味わうのは日本的豪儀さ。極東の島国に生き、ランボーの絢爛たる詩句に瞑目する自分の存在。下の句丸々の引用が力強く響く。これを塚本の偏愛する詩句引用の極めつけとし、あえてほかの引用は控える方へ向かう、という選択肢はなかったのだろうか。

淡雪にこほりつつあり深夜こゑに出てその名うるはし大高源吾 『波瀾』

塚本短歌にはどれほどの人名が登場するのか。この『波瀾』だけを見ても、白楽天、サリンジャー、真野あずさ、ニーチェ、芭蕉、佐佐木幸綱など、六五人もの名が出てくる。空海忌、蕪村忌などの忌日や深草佐介、猪熊君など創作人名も頻出する。「冬瓜のあつものぬるし畫面にはどろりとシルヴスター・スタローン」など、嫌いであろう人物の名も詠まれている。

大高源吾は赤穂浪士の一人で文武両道の美丈夫。独身を通して切腹した。名も人も塚本好みだろう。同工異曲の歌も多々あるが、これが最上だと私は思う。

10月15日(水)

朝、ゴミを捨てに行くときは雨だったが、後は曇りらしい。

  鳩どもは何を狙ってマンションの屋上にゐる六羽そろつて

  鴉が疾に追ひ払ふ鳩どもと思ふに六羽来てゐる

  よく晴れたマンションの屋上に睥睨すこの世はすでに鳩どものもの

『孟子』公孫丑章句29-2 人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今、人ちの将にに入らんとするを見れば、の心あり。交はりを孺子の父母にるる所以に非ざるなり。誉れをにむる所以に非ざるなり。其の声を悪んで然るに非ざるなり。

  人は皆忍びざるの心を持つゆゑに利害を考えず反射的に動く

林和清『塚本邦雄の百首』

ありあけの別れといへど父が子に言ふ斷魚渓冬の水かさ 『波瀾』

この歌集の中核を成す章「花鳥百首」は、「歌壇」誌上で行われた岡井隆「北京・ユーモレスク」との百首競詠をそのまま掲載したもの。タイトルからして古典和歌の典雅な調子だが、その小題は「秋風の飛騨へ奔るこころ」「斷魚渓冬のみづかさ」「こころは遊ぶ花なき峡」「尾張なる一つ松の花咲く」と少し趣が違う。俳諧趣味とでも言いたくなるような渋い俳味を帯びている。

この歌は島根県に実在する渓谷の名を用いて、父がその子に「冬の水かさ」のことを話すという、何気ない、しかし記憶に残る場面を小説仕立てにしている。

朝貌市を終りまで見て引きかへすわれの喪ひたるは一切なり 『波瀾』

塚本邦雄には『斷弦のための七十句』(一九七三)他、数冊の句集があり、戦後間もなく「火原翔」の名で多くの俳句作品を書いていたことも近年知られるようになった。特に「火原翔」の俳句作品が、後の前衛短歌の作品群へと昇華する過程は、島内景二の解説に詳しい。

塚本は初期から晩年にいたるまで常に多くの俳句を読み、自らも試み、大いなる糧としていたのだ。この歌も季語がよく生きていて、上の句だけで俳句になるかもしれない。ただやはり下の句が読後にたなびくように残る。喪ひたるは一切なり、一切なり……。

10月14日(火)

今日も涼しいが曇り空。

  路上には鴉の羽一つしばらく行くと鳩の羽。争ひありしか

  鴉と鳩の争ひの跡どころ。どちらが勝ちか、これはわからぬ

  おそらくは鴉が勝つか鳩どもは圧服されてこの地に居らず

『孟子』公孫丑章句29 孟子曰く、「人皆人の心有り、斯に人に忍びざるの政有り。に忍びざるの心有り。先王、人に忍びざる人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること、之に掌上にらす可し。

  人に忍びざるの心をもつて政治を行なへば掌で物を転がすごとし

林和清『塚本邦雄の百首』

母がゐたとしても百歳 夕虹の東山區清閑寺歌ノ中山町 『不變律』

塚本邦雄の母・壽賀は、一九四四年に五四歳で他界している。もし存命ならこのころはほぼ一〇〇歳、と事実が詠まれている。「としても」のあたりに鬱屈する心理の複雑さが見える。きんさんぎんさんの双子も同じ年代だが、まだテレビに登場する前である。

清水寺から東山の中腹を南に行くと清閑寺がある。僧侶が美女に俗情をもよおし、和歌によっていさめられたという故事にちなむ地名である。初句六音、句またがりで二句体言止め、一字あけ。夕虹という季語でつなぎ、京都の実在地名で余韻を持たせる名人芸。

一瞬南京虐殺がひらめけれども春夜ががんぼひねりつぶせり 『波瀾』(一九八七)

この『波瀾』から後の歌集を後期塚本邦雄と規定すると、露骨に戦争への尽きぬ嫌悪がテーマとなる歌が増えてゆくのがはっきりわかる。ちなみに露骨の語源は「戦場に骨をさらすこと」である。

近年、歴史修正主義者が南京大虐殺に疑問を呈しているが、その数や規模の多寡が問題なのではない。人間とはその本質に残虐性を持つものであり、過去にも現在や未来にもそれは容易く発揮されるものだと塚本の歌は示している。血を吸うこともなくゆらゆら飛んでいるだけの虫をひねりつぶすのも同根なのだ、と。

10月13日(月)

涼しい。曇っていたが、晴れてくる。しかし、曇りらしい。

  妻はゴッホ展に上野まで私は家に浄土考ふ

  浄土を描く源信の言葉過剰にてときに辟易することもある

  『往生要集』には地獄なく浄土多い言葉過剰に褒めたまひけり

『孟子』公孫丑章句28-2 信に能く此の五者を行はば、則ちの民、之を仰ぐこと父母のけん。其の子弟を率ゐて、其の父母を攻むるは、生民ありてり以来、未だ能くす者有らざるなり。此の如くんば、則ち天下に敵無し。天下に敵無き者は、なり。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり」

  五か条をなせば天下無敵なり天命を行ない王たらざりき

林和清『塚本邦雄の百首』

枇杷の汁股閒にしたたれるものをわれのみは老いざらむ老いざらむ 『詩歌變』

『詩歌變』が上梓された年、塚本邦雄は六六歳。老いと死に向き合わねばならない齢であった。実際の塚本はこののち次々と歌集を出し、詩歌文学館賞を始めとする受賞を重ね、紫綬褒章、勲四等旭日小綬賞を受賞するなど、長い年月活躍し続けることになる。そこには相当な意志と覚悟があったにちがいない。

「老いざらむ」のリフレインには、反語的に老いを受け入れ、その上でいかに生きようとするかの指針が見える。「枇杷の汁」と「股閒」には性的なものも揺曳する。「土曜の父よ枇杷食ひ」とも遠く響きあう。

山川のたぎち終れるひとところ流雛かたまりて死にをる 『不變律』(一九八八)

塚本邦雄の意外な偏愛に雛人形があり、それは歌の中で常に不吉な存在として扱われている。「不運つづく隣家がこよひ窓あけて眞緋なまなまと耀る雛の段」や「雛壇の十二、三人くたびれて六波羅に流れ矢を持つごとし」などにも明らか。この歌では、人間の罪や汚れを背負って流された雛がたまって死んでいる。

『豹變』『詩歌變』と来て、この度は『不徧律』。

どんなに変をこころざそうと短歌の韻律は変わらぬ、と云う意味か。塚本は生涯をかけて夥しい数の歌を詠みつつ、その韻律の不可解さとの格闘を続けるのだ。

10月12日(日)

涼しいですな。やっと秋かな。

評判の永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』を読む。木挽町は芝居町。そこでの仇討ちも芝居であった。登場人物たちの優しさのおかげで成功する仇討ち芝居。なかなかに愉しめたのである。中島かずきの特別エッセイに標題が『仇討ち』でなく「あだ討ち」としてあるのも、深く納得する。

  櫻井翔のへたくそ演技それでもドラマ「放送局占拠」楽しむ

  へたくそな役者はあまたありされどもかこむ名優あらむ

  名優にかこまれへたくそ役者ども意識せざるか一向に駄目

『孟子』公孫丑章句28 孟子曰く、「賢を尊び能を使ひ、俊傑位に在れば、則ち天下の士、皆悦んで其のに立たんことを願はん。市はして征せず、法してせざれば、則ち天下の商、皆悦んで其の市に蔵せんことを願はん。関は譏して征せざれば、則ち天下の旅、皆悦んで其の路に出でんことを願はん。耕す者は助して税せざれば、則ち天下の農、皆悦んで其の野に出でんことを願はん。にに布無ければ、則ち天下の民、皆悦んで之がと為ることを願はん。

  政治・市場・関所・農耕・住居それぞれに緩くせば王の民となることを願ふ

林和清『塚本邦雄の百首』

天使魚の瑠璃のしかばねさるにても彼奴より先に死んでたまるか 『詩歌變』

「かやつ」の訛った「きゃつ」軽いののしりの意を込めて言う。現実にはもうあまり使われなくなったが、歌の中でも使用例はほとんど見られない。だからこその衝撃があった。初出は「短歌研究」の歌人百人共詠のページだったと思う。当時から彼奴は誰か、と数人の歌人の名前が取りざたされ、昭和天皇説まで出された。それは十分計算されたことであり、エンゼルフィッシュの屍の形象とともに意識に深く食い込む。

しかしそれなら余計に、彼奴を使った他の歌は、歌集に入れるべきではなかった、と思うのだが。

いくさ勃るべくしてしづかうつせみの空心町も去年ほろびたり 『詩歌變』

塚本は生涯、地名の美に執着した。日本全国の興味惹かれる地名を詠んだ『新歌枕東西百景』(一九七八)という著書もある。その中で京都の地名「天使突抜」を「なぐはしき京見て死ねとあかねさす天子突抜春のあけぼの」と詠み有名になった。この歌の「空心町」は塚本にとってなじみ深い大坂の天満にかつて存在し、その名を愛していたのだろう。塚本が危惧するのは、由緒ある地名が消されてゆくことは権力による文化統制につながり、やがて戦争の兆しともなること。そしてそれはあくまで忍び寄ってくるものだということ。

10月11日(土)

今日は雨。

  朝ガラス鳴けば諸鳥の声聴かずカラスの天下か周囲を飛べり

  カラスの声が聞こえぬところにスズメゐて愛らしきもの鳴き交すなり

  イカルかもカワラヒワかも私には見分けがつかぬ野の鳥が飛ぶ

『孟子』公孫丑章句27 孟子曰く、「仁なれば則ち栄え、不仁なれば則ち辱めらる。今、辱めらるるをんで不仁に居るは、是れ猶ほ湿を悪んできに居るがごとし。し之を悪まば、徳を貴びて士を尊ぶにくは莫し。賢者位に在り、能者職に在り、国家なりとせん。是の時に及んで其の政刑を明らかにせば、大国と雖も必ず之を畏れん。詩に云ふ、『天の未だ陰雨せざるにびて、彼の桑土をり、をす。今此の下民、敢て予を侮ること或らんや』と。孔子曰く、『此の詩をる者は、其れ道を知れるか』と。能く其の国家を治めば、誰か敢て之を侮らん。

  人君がよく用意周到に国家治むれば誰か敢て侮ることなし

林和清『塚本邦雄の百首』

おどろくばかり月日がたちて葉櫻の夜の壁に若きすめらみこと 『詩歌變』

戦前戦中、昭和天皇の御真影は学校の教室はもちろん、家の鴨居などにうやうやしく掲げてあることが多かったという。もちろん塚本もそれを拝したことだろう。戦後、教育機関のものは焼却処分された。それを「奉焼」と呼んだらしい。

しかし家々には処分されず残されたものもあっただろう。長い年月が経ち、壁に残された御真影。それは三〇代の若さのままの昭和天皇の姿。写真自体はセピアに色褪せている。外はすでに花が散ってしまった葉桜の夜。磔にされたような時間がとどまっている。

花冷えのそれも底冷え圓生の「らくだ」火葬爐にて終れども 『詩歌變』

塚本邦雄は知る人ぞ知る古典落語愛好者。寄席に足を運ぶのではなくテープで聞くのが好きだったというのは、芸よりも噺に文学性を見出していたからであろう。それも高踏的な文学ではなく俗世間を舞台に描かれる人間の業や残虐性、露悪趣味などに魅かれていたと思われる。特にこの「らくだ」は典型的。死んだ男の弔いを出すために、廃品回収業の小人物に死体を背負わせ「かんかんのう」を踊らせるというグロテスクさ。社会底辺に生きる男たちと差別用語頻出の世界に「汚い美学」を味わっていたのだ。

10月10日(金)

涼しい。歩くと暑い。

  突然に秋めく日あり。桜木の枝から落ちるさくらのもみぢ

  散りはじめふらりぽつりと流れゆくさくらの古木の幹に手をやる

  さくらのもみぢを踏むわれもけもののごとき喜びにゐる

『孟子』公孫丑章句26 孟子曰く、「力を以て仁をる者は覇たり。覇は必ず大国をつ。徳を以て仁を行ふ者は王たり。王は大を待たず。は七十里を以てし、文王は百里を以てす。力を以て人を服する者は、心服に非ざるなり。力らざればなり。徳を以て人を服する者は、中心悦んで誠に服するなり。の孔子に服するが如きなり。詩に云ふ、『西自りし東自りし、南自りし北自りし、思ひて服さざる無し』と。此を謂ふなり」

  西からも東からも、南から北からもくる徳あればこそ

『塚本邦雄の百首』

豹變といふにあまりにはるけくて夜の肋木のうへをあゆむ父 『豹變』

『易経』の豹変とは、豹の斑紋がくっきりしているように、君子ははっきりと過ちを改めるという意。塚本はそれまでの文学的業績にひと区切りをつけ、これからの指徴として「編」を志した、その起点である。

しかし何を変え何が変わったのかは判然としない。」塚本の意識の中で「変」とは何だったのだろうか。

下の句は不思議な情景である。夜の公園の遊具に登って歩く父。酔狂なのか、子に勇姿を見せたかったのか、父の姿は「君子豹変」にはあまりに遠い、ということか。それともこの世ならぬ父の幻なのだろうか。

詩歌變ともいふべき豫感夜の秋の水中に水奔るを視たり 『詩歌變』(一九八六)

前衛短歌はまさに最前線の部隊で短歌を変えた。六〇代の塚本は、水の中に水が走る様を発見するように、短歌の世界の内側で短歌本隊の質的な変革を目指していたのではないか。本隊は「人生詠境涯詠」であり「生活詠日常詠」である。塚本は境涯や日常を詠む時も、事実に拘泥することなく、言語感覚を駆使し人間の業や世界の歪みを垣間見せるよいな物語的な広がりを持つ詩歌空間をめざしたのではないだろうか。それは石垣にしみこむ雨のように、短歌の本隊に深く沈潜し、写実系作品をも静かに変えていったのだ。